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1999.11.15.発行 vol.15 [まず、勢いに乗せなはれ 号]
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■■ [本]のメルマガ 1999.11.15.発行
■■ vol.15
■■ mailmagazine of books [まず、勢いに乗せなはれ 号]
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■CONTENTS---------------------------------------------------------
★トピックス
→え、『ベルセルク』置かないって・・・・??!
★「本の周りをうろついて・・」/湯川新一
→「リアル」と「ネット」の書店とは? 変わり行く流通の姿を描きます。
★「今日(こんにち)の芸術」/忘れっぽい天使
→今回は、現代最先端のコミックから、<今>をえぐります
★「中国古典で浅学菲才が直る?」/掩耳(えんじ)
→兵法書最大の傑作『孫子』をもとに、人の使い方を解き明かします。長文。
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■トピックス
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■児童ポルノ法 施行
11月1日より児童ポルノ法が施行され、各書店に波紋をよんでいる。例え
ば、近来最も人気が高いコミック『ベルセルク』(白泉社)は、主人公が幼
児時代、性的虐待を受けた描写が引っ掛り、紀伊国屋書店が取り扱いを止め
ている(11月10日現在)。コミックが今回の法律に引っ掛るのか自体の
論議が別れており、今後の展開が注目される。
■古本屋と私[その1:池袋/高野書店]文責=五月
これから三回にわたって古本評論と古本屋を巡る印象深い出来事などを書
かせていただこうと思います。
その1:池袋/高野書店[取り挙げる本:『天使論』ほか]
その2:神保町/田村書店[本:『霊の命について』ほか]
その3:大泉学園/ポラン書房[本:『尖筆とエクリチュール』ほか]
という感じで進む予定です。新刊で目立った銘柄情報を見つけられない場
合はたいていリブロ池袋本店の新刊コーナーや青山ブックセンター各店の
芸術書売場に行きます。「素敵な新刊がこんなに出てるじゃないか」と反
省しますね。さあ、今日も本屋さんに寄ろうっと。
#『天使論』笠井叡、1976年10月新装版、現代思潮社。
著者は土方巽や大野一雄らと並んで、七〇年代の「舞踏」の地平を拓いた
偉才である。天使館を主催。ちょうどポストモダンの風が吹き始める頃に
突如ドイツへ渡り、シュタイナーのオイリュトミーやドイツ観念論を十数
年間学んで帰国、九〇年代になり活動を再開した。子息の爾示さんは新進
の写真家、禮示さんは父を継ぐ舞踏家となっている。
本書は笠井氏の処女作で、編集担当の川仁宏さんはその後、パフォーマー
としても活躍されているのをお見かけした。若い世代にとっては道元の
『正法眼蔵』注解および現代語訳で知られている石井恭二氏率いる当時の
現代思潮社の勢いといったら、眩しい、の一言である。数多くのユニーク
な書物が生み出されており、とても説明し尽くせない。
なお現在は代がわりされ、別の方が経営しておられる。エートル叢書など
新機軸が打ち出されているのは周知の通りだ。
さて『天使論』だが、私は本書をペヨトル工房の『夜想』の、「天使」特
集号に掲載されている松岡正剛のエッセイで知った。ほんの数行言及され
ていたに過ぎなかったのだが、いたく魅かれるものがあり、数年間古本屋
で探し続けたが、まったく出会えなかった。
池袋芳林堂のたしか八階に、高野書店という古本屋が存在していたのはも
う何年前の話になろうか。日本文学、外国文学、人文書の品揃えに光るも
のがあったこの店で私はいったいいくら落としたろう。高値を我慢して随
分買い込んでいたが、ある日ふと閉店してしまった。これはショックだっ
た。宝の山がもうひとつの店舗に移動した時には見るも無残に失われてい
た。今ではとうに高野の名は消え、「たもかく本の森」として品も入れ替
わったようで、愛想のいいご主人が全く別の方針で経営しておられるもの
の、高野を失った痛みは癒されるものではない。
ありし日の高野書店の幻想文学棚で『天使論』を見つけた時の喜びは大き
かった。刊行当時1800円の本書がたった1000円で入手できた。初版ではな
く新装版だからだろう。本のコンディションはカバーが疲れているもの
の、書き込みもなくまずまずだ。読み出した直後、射抜くような、包むよ
うな、言い知れぬアウラに撃たれ、喜びは感銘へと変わった。
ウスペンスキーとグルジェフとバタイユと密教と身体論のめくるめく混淆
と言ってしまうとつまらない。冒頭が『マルドロールの歌』に似ていると
しても、それがどうしたというのだ。容易には説明しがたい、舞踏家の異
様な熱情、大いなる結合への意志と、断固として世界を拒否する単独者た
らんとする志向が渦を巻いていた。グノーシス主義? そうかもしれな
い。
巻末の「跋」には、註の作成にあたって詩人の鷲巣繁男氏とドイツ文学者
種村季弘氏をはじめ多くの方々の手を煩わせ、とあるが、ここで協力して
いる人々の名前に驚くだけでは終わらない。註そのもののこまやかさやベ
クトルや強度にも異様な輝きがある。現在の笠井氏はどう本書を見ている
のかわからないが、二〇代の情熱は、復帰後口にされていた「舞踏遠近
法」という概念の内にも変奏されて息づいているように思える。
氏はその後、同版元から『聖霊舞踏』『神々の黄昏』という二つのエッセ
イ集を出しておられる。フィオーレのヨアキムから題を採ったという前者
はようやく数年前、早稲田の文英堂で買うことができた。ここでは稲垣足
穂や詩人たちに紛れて棚にささっていた。白い函入の本で、表紙が随分黄
ばんでいるがやむをえない。77年1月初版発行当時2000円の品を3300円で
購入。装丁装画を中西夏之氏が担当している。内容は二〇才の頃の小論か
ら舞踏家としてのメモまでで、一篇ずつが『天使論』の註釈に見える。
『神々の黄昏』は白馬書房(現在は水声社)のユニークな雑誌「迷宮」の
広告で見ただけで、現物は一度も手にしていない。なお数年前、天使館と
いう出版社がキリスト教の女性神秘主義者の翻訳本を刊行したが、まった
く別の組織なのだろうか。まだ調査していない。
『聖霊舞踏』のあとがきにはこうある、「十代の終り頃、初めて舞踏家大
野一雄氏に出会い、氏を通して暗黒舞踏の土方巽氏を知り、氏を通して仏
文学者澁澤龍彦氏に出会った。当時の私の精神の日々は、これらの人々と
共にあった。そしてその後、澁澤氏の紹介で美学者高橋巌氏に出会った。
このような人々との出会いによって、言葉と肉体の双方にまたがる聖霊舞
踏が、私の中に支えられていた」と。
当時日本に一篇の研究論文もなかったであろう異貌の神学者ヨアキムの名
前を示唆したのは澁澤氏だったろうか。また、シュタイナーの手ほどきを
施したのは、やはり高橋氏だったろうか。『天使論』の中には意外にも
シュタイナーの名はない。高橋氏との交流はドイツ留学のきっかけになっ
たのかもしれない。文中にある「言葉と肉体」というのは、笠井氏にとっ
て生涯のテーマであろうと確信している。
確か去年か今年のことだったと思う、神保町の某古書店にて、仕入れたば
かりで未整理のまま積み上げられた本の中に『天使論』のおそらく初版本
の背を発見した。内容を知っているとは言え、興奮に駆られた私は、店の
若頭(バイトのチーフ?)にこれを見せてくれとせがんだ。彼はきっぱり
と「売り物じゃないんで」と拒絶した。数度のお願いも空しかった。
せめていつ店頭に並べるつもりか、あるいはいちばのような場所で同業者
に売ってしまうのか、教えてほしかったが、彼に権限はなかったと見え
る。かたくなな拒絶は腹立たしくさえあった。古本屋の中にはやたらと高
慢な人もいるが、実に鼻持ちならない。いやしかし、我が身を顧みれば、
お客や書店に冷たい態度を取ることもある出版人というのもいっそう感じ
が悪いわけで、こうした嫌悪の悪循環は尽きない。
結局、初版本を目前にしながら見ることも触れることもできなかった。思
い出すだに不愉快な事件だが、次回は緊張と愉快が交錯した一件を書きた
いと思う。
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■「本の周りをうろついて・・」/湯川新一
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「ネット書店」と「リアル書店」
過日、図書館でいつものように『新文化』をペラペラめくっていると
流行りのインターネット書店関係の記事の中に「リアル書店」という
言葉があった。
「リアル書店?」
要はインターネット書店を縮めて「ネット書店」と呼び、それに対応したか
たちで従来の本がある書店にリアルを付け「リアル書店」と命じ、使ってい
るわけである。
結構、便利なのでしばらく使わせて頂きます。
しかし、この「リアル書店」という言葉は一般化しているのでしょうか?
「ネット書店」のことをちょっと戻って考えると、「革新=異物」という言
葉が適切かと思う。そのツールを持ち、駆使することによって商機ありと判
断し、他産業も続々と参入してくるのだと思う。
従来とは全く違った販売システムを「ネット書店」は従来の「リアル書店」
の市場に持ち込んだ。この「革新」とも言える出来事は模倣活動という小さ
な差異化を繰り返し大衆化へ急進している。
しかし、それは情報量の多さを最大の武器に量的に拡大、拡散しつつあると
いう感じがどうしてもしてしまう。
肝心な質=編集の変化も同時平行で行なわれているのだろうか?
「リアル書店」を内包した「ネット書店」は95/12の丸善を機に96/
4八重洲、96/10紀伊国屋、99/7青山ブックセンター、99/8文
教堂99/9三省堂、、ジュンク堂書店等と一気に立ち上げている。
11月には紀伊国屋書店が数店舗で店頭在庫の開示と店内のどこに
あるかを明示する「ハイブリッド ウェブ サービス」を立ち上げた。
ハイブリッド・・・、お客さんもパソコンたたくけど、出版社もたたくんだ
ろうな。
入荷と売れ・返品・どこに置くかが全部つながってないとできないはずなの
で、大変なことです。しかも完全を要するわけだから。
万引きで持っていかれた本のフォローはどうすんでしょ。入荷データは
あるし、どこに置いてあるかのデータはあるけど、本が無いことになるわけ
だから。棚卸も数える必要が無くなって集計だけで「その差」が分かるわけ
だから楽と言えば言えるけど、在庫データに基づいて本の有無のチェックは
必要だからなァ。また新刊入荷時に置く場所・棚を決めるんだろうから、既
刊書も含めて担当者レベルでちょっと棚替えってわけにもいかないだろうし
。まだあるけど・・・。結構、がんじがらめかもしれないと勝手に想像して
います。
リアルとネットという販売ツールを「混成させない」という考え方もあった
はずで、混成したためにリアルの特性が損なわれないことを願うばかりです
。紀伊国屋に知人がいないので「何くだらないこと考えてんだ。全部クリア
してるんだよ」と言われそうですけど。
ただ、紀伊国屋は2000年、来世紀のひとつの書店像を明確に提示したわ
けですから敬服します。
しっかし、現場は大変だろうなァ。
「リアル書店」は「ネット書店」という照返しの良い異物・ツールをを持っ
たのではないだろうか?制度、慣習にからめとられ、取次の販売代行という
位置に甘んじている多くの書店が、<実物がある>ということはどういうこと
か、と考えざるを得なくなり、何をどう持つかということに考えが及んでい
くだろう。
「ネット書店」の書誌データベースに相当するのが「リアル書店」の品揃え
・陳列ということになる。
いくつかの「ネット書店」をのぞいて見たり、「リアル書店」に足を運んで
みて思うことは、量ではなくやはり編集術か、ということである。
「ネット書店」が誇る情報量だけじゃつまらないし、「リアル書店」の実物
がある、というだけじゃやっぱり楽しめない。
本を紹介・販売する場合には、現在の好みや動きが反映する。
以前は無視されたり軽視されたりした著者や著書でも、現在では
脚光をあびたり再評価されることが多々ある。社会体制・政治思想・政治行
動などを考慮し、店・個人が、ある選択基準を立てて本を紹介・販売してい
くのだと思う。
それは多様であればある程良いと思う。読む方だって問題を立てながら読む
わけだから。やっぱり編集=問題の立て方かなぁ。
出版、本の扱いが雑になるということは、やがては言葉の死へとつながって
くと考えられる。アレントは著書の中で「言葉が死ぬと、人間から公的領域
というものが消える。公的領域が消えると、生きることの意味が消える、そ
の結果、人は単一なものに対する対抗原理を失い、最終的にはある種の全体
主義を呼び起こしてしまう」と書いています。
今の政治情勢をみると、ちょっとひっかかってきますね。
出版、流通、販売、読書という行為は、やはり共同作業でなければならず、
自分を守るという意味でも大いに加担すべき価値のあることだと思う。
年間約6万5000点の新刊が発売されていると聞く。
書店の現場で、いわゆる新刊台で販売される期間はいよいよ短くなりつつあ
る。発売から1ヶ月間、新刊台で販売される本は数えるくらいしかないはず
である。多くの本は1ヶ月を待たずに新刊台から外され棚前の平積みに廻る
か、棚に1冊残されるか全部返品になるかのいずれかであろう。
書店の現場で新刊台から外された本は、発売から2ヶ月1年5年、それ以前
に発売された本と同等の扱いを受けることになる。
本の持つ〈強度〉を横にらみで現在というフィルターを通し編集・提示する
作業が本格的に重要になり、それを最前線で実行することのできるのが「書
店員」であると思う。
その場では、「リアル書店」の仕事と「ネット書店」のコンテンツの作成の
仕事の差は全く無いと考える。
もちろん、前提として出版社の仕事もその重要性を増す。
「書店」として読者にどのように提示・販売するかという編集術の技・共闘
が出版社、読者を交えて新旧のツールで再意識、実施されることになるのだ
と思う。いや、もう既にはじまっているはずだ。
おしまい。
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■「今日(こんにち)の芸術」/忘れっぽい天使
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傍観者としての人生−冬目景の漫画
スコラが出版活動を停止したと聞いて真っ先に心配したのは、このまま
冬目景の諸作が絶版になってしまうのではないかということだった。幸いに
してソニー・マガジンズがそれらの作品を引き継いで刊行することになり、
ほっと安堵のため息をつくことができた。出版社の皆さん、経営しっかりや
ってくださいよ、本は代替のきかない商品なんですから。
冬目景の漫画作品の単行本は次のようなものである。「羊のうた」@〜B
「僕等の変拍子」「ZERO」(ソニー・マガジンズ)「黒鉄」@〜C(講
談社)「イエスタデイをうたって」(集英社)。それらの中にはSF的なア
イディアを含むかなりドラマティックな展開を持つものもあるが、全体の印
象はいたって静かで内省的なものである。それもそのはず、彼の作品の主人
公たちは、「自分の人生」という唯一無二の宝物を与えられておろおろして
いる、情けない男の子たちばかりなのだから。
代表作と思われる「羊のうた」は、遺伝により他人の血が欲しくてたまら
なくなってしまう奇病を持った姉と弟の物語。主人公の一砂(かずな)は
幼い頃母を亡くし父の友人夫妻にひきとられて暮らしている。
「本当の親じゃない という後ろめたさがおじさんとおばさんをやさしくさ
せ」、
「本当の子供じゃない という後ろめたさが俺をいい子≠ノさせる」。
豊かさと自由を保証された生活の中で一砂は窒息寸前の状態になっており、
そんな折り、彼は離れ離れになっていた姉・千砂(ちずな)と再会し、その
血を欲するようになる。ここで描かれる吸血という尋常ならぬ行為への欲求
は、今まで自分の人生をまるでよそ様のものであるかのようにして歩いてき
たことの心理的反動の比喩であろう。他人を傷つけたくない、という名目の
下に今まで「自分」を「自分の人生」の主人公に据えることを回避し続けて
きた一砂を言わば奇病が救う形である。発病によって一砂は死を願いさえす
るが、同時にそれは心底愛しく想う者たちの存在に向き合うきっかけにもな
った(吸血の対象となるのは愛しく想う者の血である)。保証された自由の
中では見つからなかった自己の主体性が、病という外圧によって自覚を促さ
れた「愛情」という拘束関係の中でようやく立ち上がるのだ。普通の漫画な
らばここから物語がスタートするという地点を、この漫画は逡巡し続ける。
「黒鉄(くろがね)」も変わった設定の作品だ。時は江戸時代、殺された渡
世人の少年・迅鉄は、浪人の天才科学者によってサイボーグとして蘇生させ
られ、以前の人生を捨てて国中を渡り歩くことになる。面白いのは、彼には
声帯がなく従って喋ることができないが、彼が持つ刀(鋼丸という名)には
脳も声帯もあり、迅鉄に代わって彼の考えを代弁したり(テレパシー能力の
ようなものが備わっている)会話を交わしたりする、というところ。読者は
主人公自身の声を生の形で聞く(というか読むというか)ことができず、間
接的に主人公の考えているらしきことを理解することしかできない。ストー
リー自体は比較的オーソドックスな義理・人情モノなのであるが、自分の考
えを他者に代弁させてしか表わせない主人公という設定が、物語を奇妙に歪
ませる。迅鉄は自分自身の人生を生きることを早々断念し、「渡世人の生き
方」という外的規範に沿って死後の生を歩くことを、苦い想いを噛み締めつ
つも意外にあっさり受け入れてしまう。自身の死を認めてかえって生き生き
している主人公!
最新刊の「イエスタデイをうたって」は一見ごく平凡な恋愛漫画。だがこ
こでも微妙な三角関係にある登場人物たちの意識が面白い。フリーター生活
をおくる魚住陸生は、高校教師をしている同窓の女性に片想いしており、告
白してあっさり振られる。この失敗に終わった告白に彼を踏み切らせたのは、
「就職しないのも好きな女に打ち明けないのも何らかの結果が出て傷つくよ
りも結果を曖昧にして自分の体裁を守ってるだけなんだ」
という自己嫌悪から。相手の女性に恋焦がれるあまりというより、自分が自
分自身の行動の主人になっていないことを恥じた結果なのだ。恋の告白をす
るというのに、問題になっているのは好きな女性を手に入れられるかどうか
ということではなく、自分自身を他人として眺めた時その体裁がカッコいい
か悪いか、ということでしかない。その魚住に片想いする少女ハルはこう語
る。
「おかしいよね…レンアイなんてただの錯覚なのに…わかってんのにそれに
逆らえないなんて」。
「恋愛」というテーマが自己対他者の問題でなく、自己対(他者化された)
自己の問題として捉えられているのだ。
冬目景の漫画は、民主主義の制度が成熟し、「自由」が勝ち取るものでなく
品物のように配給されるようになった今という時代の残酷さを表わしている
ように思える。誰もが自分を見詰める時間がありすぎ、自分自身を対象にし
すぎて、他人との関係の中に自分を生かすドラマを作れなくなってしまって
いる。自意識が過剰すぎ、援助交際少女ほどのカラ元気も出せなくなってい
る男の子たちは、否応なしに自分を拘束しにくる「何か」を無意識のうちに
じっと待っているのかもしれない。
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■ 中国古典で浅学菲才が直る?/掩耳(えんじ)
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第七回 まず、勢いに乗せなはれ
古今東西、すべての兵法書の中で唯一最高のものを挙げるとすれば何か?
それは『孫子』に止めを刺します。
その理由を一言で言えば、<戦争>という行為に含まれる普遍的な法則性
を最も鋭く暴き出し、しかも<戦争>そのものさえ相対化してみせるとい
う高みに、一人あるからです。
実は武経七書の中で、<間諜>に対する事細かな記述をしているのは『孫
子』しかありません。しかもこの記述、現代の情報戦の原則をすべて内包
――いや、逆に現代の参謀たちが『孫子』をもとに構築した、というのが
正解なのでしょう。これが2千年以上も前の本なのです。
ところでこの『孫子』には、ものすごくユニークな所があります。それが
人の使い方なのです。『孫子』には、人を使う際の厳罰主義も、部下との
駆け引きもほとんど記されていません。わずかに、
>兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾心を植え付けなければならない。ま
>た、敵の物資を奪取させるには、手柄に見合うだけの賞賜を約束しなけ
>ればならない
それに、
>兵士がなついていないのに、罰則ばかり適用したのでは、兵士は心服し
>ない。逆に、すっかりなついているからといって過失を罰しなければ、
>これまた使いこなせない。
という文言が目立つくらいです。
『孫子』が人を使う際の眼目は、全く別のところにあります。まず『孫子
』は、兵士一人一人の働きに過度の期待をかけない、と言い放ちます。
・故に善く戦う者は、これを勢に求めて、人にもとめず。故に善く人を択
(す)てて勢に任ず。
そして、一人一人に過度の期待をかけないからこそ、勢いに乗ることがで
きる、というのです。教育や賞罰に拘泥し過ぎず、全体を勢いに乗せてし
まえば良い――例えばプロ野球において、戦力的には劣っているものの、
切っ掛けをつかんで勢いに乗ったチームが優勝、という、ままある事例を
思い起こさせる名言です。
さらに、<管理>や<教育>という美名のもと、過度に組織の一人一人に
拘泥した場合、上に立つ人間も、部下の評価の上げ下げや、今だったら誰
を切るか、といった近視眼的な所に捕らわれやすくなる弊害を生みます。
同時にこれは、上に立つ者が自分の責任を曖昧にする――下が育たないか
ら、下が馬鹿だからと口にしていればいい――最良の手段ともなるのです。
しかし、組織を勢いに乗せることは、下の人間では出来ないからこそ上に
立つ者が心してやるべきこと――現在だったら、勢いが落ちるのは致し方
ないとして、勢いの落ち方をいかに他より鈍くするか、が上に立つ者の真
になすべきことなのです。
細事ではなく組織全体こそが管理者の仕事――考えてみれば当たり前です
が、やはりこれは卓見です。特に今のようなご時世で、組織内部が、切る
切られるなどで煮詰まってしまいがちなときこそ、必要な考え方だといえ
るでしょう。
近視眼的な所にはまってしまうトップこそ、本来無用な人材なのです。
しかし、ここにこそ、『孫子』最大の矛盾も孕むのです。『史記』に綴ら
れた『孫子』の著者孫武のエピソードは、この本文の記述を裏切りかねな
い内容になっているからです。
このエピソード、現代の会社に置き換えて紹介してみましょう。
――さる凋落気味の大手企業へ、「自分の策に従えば、会社は蘇る」と豪
語する経営コンサルタント・孫武がやって来ます。面会した社長は、
「君の言うことは立派だが、果たして実地に役立つのかね。そうだ、この
総務課の女子社員連中を使って、君の実力を見せてくれんか」
見ると、総務課には、10人ほどの女子社員たちが気だるそうにたむろっ
て、私語や私用電話に花を咲かせています。
そこで孫武は、女子社員を集め、お局格を2人、チーフに据えると、
「私が<パ>と言ったらパソコンへの書類の打ち込み、<コ>と言ったら
コピーをみなで手分けしてやってくれ」と懇切丁寧に説明したあと、指示
を出します。
ところが、女子社員は鼻で笑うばかり、全く動こうとしません。
孫武は社長に向かい、
「これは説明が行き届かなかった私の責任です」と詫びると、もう一度女
子社員に説明を繰り返し、また指示を出します。しかし女子社員はますま
す嘲りの色を濃くするばかり。誰も相手にしません。
すると孫武は「説明は充分に行き届いているはずだ。実行されないのはチ
ーフに責任がある」と言うや、いきなりチーフにした女子社員を業務命令
違反で解雇にします。驚いたのは社長。
「困るよきみ、組合問題になるじゃないか。それに、あの女子社員はワシ
とチト関係があってな。だから・・」
ところが、孫武は、責任者は一度現場に赴けば、社長の指示にさえ従わな
いこともある、と言って受け付けず、本当に解雇してしまいます。
その後で孫武が指示を出すや、女子社員はもの凄い勢いで働き出します。
私語するものなど一人もいません。孫武は社長に向かって、
「社長は、どうも現場を動かすことには、うといようですな・・・」
……読んでいただいた通り、これは厳罰主義の典型なのです。しかし『孫
子』本文で厳罰主義的な言辞がない、これは一体……
考えられることとしては、まず時代背景があります。この孫武が活躍した
時代は<春秋時代>であり、厳罰主義に代表される「法家思想」(韓非子
がその代表ですが)はその次の時代、<戦国時代>に生れます。この「法
家思想」の成果によって、秦の始皇帝は中国を統一するのですが、いずれ
にせよ孫武のころはまだ「法家思想」が形になっていなかった。それ故、
厳罰主義的な行動はあっても、思想としてはまだ熟していなかった、と一
つには解釈で出来ます。
余談ですが、『孫子』が孫武の著作だとほぼ明らかになったのは、実は比
較的最近なのです。孫武を記述した文献が少ないこととや、『孫子』の内
容が高度で洗練されすぎているという理由などから、もっと新しい時代に
書かれたという説――戦国時代の孫ピンという武将の著作説や、もっと後
人の著作説――が有力でした。
ところが1972年、中国山東省の銀雀山漢墓という墓から、『孫子』が
出てきたのです。この墓は一緒に発掘された古銭から、前漢の前期のもの
と確定され、しかも同じ所から、別に『孫ピン兵法』まで掘り出されたの
です。この歴史的な発見により『史記』の記述の正しさがほぼ実証された
わけです。
しかし、ここで分析したように、内容を見ても、『孫子』が<法家思想>
以前の内容を持つ――つまり春秋時代以前のものであることは明らかです。
しかしそうとは読み取れない歴代の学者たちもいた……昔から、『孫子』
読みの『孫子』知らずは多かったのだと痛感させられる、こちらにも耳の
痛い出来事です。
閑話休題。
孫子の本文とエピソードの謎は、他にもいろいろ解釈できますが(現在の
『孫子』本文に欠損があるなど……)、いずれにしても<勢い>と<賞罰
・管理>の二者は相補的に使わなければならないスキルだということがわ
かります。<賞罰・管理>重視の『尉繚子』などと併せ読むことで、人の
使い方における手数を多くし、より状況に応じた柔軟な対応が可能になる
のです。
このように、汲み尽くせぬ魅力と深さのある兵法書、ぜひ、ご一読下さい
。次回、ようやく諸子百家に移り・・・・・・ます。
参考図書
『全訳 武経七書』プレジデント社(半世紀ぶりの新訳! 組織・トップ
の原理や、戦いにおける関係性を学ぶのに最上のテキスト)
『孫ピン兵法』徳間書店(欠損が多いのが欠点だが、古代そのままの文章
は一読の価値あり)
『孫子の兵法』三笠文庫(もし、一冊だけというならこれ。2千年たって
もこれ以上のものが現れない戦争の書)
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■あとがき
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>先日、フランクフルトの書籍見本市(メッセ)を見学しました
>ほう、いかがでしたか?
>いやー、見本市内にある、西欧の出版社ブースは満員ラッシュのような
混雑だったんだけど、日本の出版社ブースは、冷たい風がピュー、空き缶
コロコローみたいな……
>それは、日本のブースに魅力がないってこと?
>そうそう。まず、ブースのデザインからしてダサいことダサいこと。そ
れに、日本の編集者はその見本市で西欧の出版物の版権取ったり、デザイ
ンやら企画パクろうとするんだけど、西欧が逆に日本を真似しようという
ことは、まず無いという……
>語学の壁が大きいんじゃないの?
>うん、勿論それはわかっているようで、写真とかアートとか絵本みたい
な出品が多かったんだけど……
>それでも、日本の出版物にはパクる程の独創性も価値もなし……と。
>コミックやアニメは例外みたいだったけど、それにしても日本の出版界
がずーっと不景気な理由の一つがわかった気がしますね……
>要は日本の出版物に魅力がないんだ。
>そうは思いたくないんだけど、ああして比べられちゃうとね、シクシク
>日本でデカイ顔してる大手版元も、世界の中に放り出されれば、ただの
ド田舎のガキ大将だったってわけですか。いや財政破綻しかけた村役場で、
一人だけ高給もらって知らんぷりの小役人かな……
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