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2000.3.5.発行 vol.26 [お前はただの活字にすぎなかった 号]
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■■ [本]のメルマガ 2000.3.5.発行
■■ vol.26
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■CONTENTS---------------------------------------------------------
★トピックス
★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→中沢新一氏の功罪をえぐり出します
★「一字千金の記」/グッドスピード
→誤植が多いとみずから名乗る本の誤植とは?
★「虚実皮膜の書評」/キウ
→阿部和重氏の野間文芸新人賞受賞作を取り上げます
★「美人書店員の赤裸々な日常」/あくびちゃん
→森巣博氏の新刊『無境界家族(ファミリー)』、柄谷行人氏の『倫理
21』を取り上げます
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■トピックス
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■リブロとパルコBCが合併
セゾン系列の二大チェーン店であるブックセンター・リブロとパルコ・
ブックセンターが3月1日(水)付けで合併した。全国の店舗は順を追っ
てリブロに改称されるが、微妙にニュアンスが異なる両者の統合はうまく
いくのだろうか。従来のパルコや洋書ロゴスのファン層の反応は微妙だろ
う。なお、大阪市梅田のJR大阪駅前阪神百貨店9Fの旧「駸々堂阪神
店」は、3月4日(金)に「リブロ阪神店」としてリニューアル・オープ
ンした。
■ベルテルスマンのオンライン書店の日本サイトが近日開店
角川書店と提携し、三十年越しの日本上陸を果たしたドイツのメディア複
合型出版社ベルテルスマンが経営するインターネット書店「ボル」が、日
本の書籍を扱うショップを準備している。現在はイギリス、ドイツ、フラ
ンス、オランダ、スイス、スペインのサイトをすでに展開しているが、こ
こにイタリアと日本が加わることになる。英語をグローバル・スタンダー
ドの盾にして強力展開を進めるアメリカのアマゾンとは対照的に、ドイツ
のボルは各国語の尊重を戦略的に選択しているように見える。
http://www.bol.com
■アイヒマン回想録、イギリス法廷で初公開
ボックス東中野で公開中のドキュメンタリー映画『スペシャリスト』の主
人公?であるナチス戦犯のルドルフ・アイヒマンが獄中で書き綴った千三
百枚に及ぶ回想録が、イスラエル政府の許可で、修正主義歴史学者への反
証としてイギリスの法廷等で2月29日初公開された。アイヒマンが見聞
したユダヤ人大虐殺の実態と、ナチス官僚制の中で歯車として勤めた半生
が綴られている。現在まで公開されてきたのはアイヒマン裁判の前に作成
された「調書」のみであるが、『スペシャリスト』の末尾でも彼自身が熱
を込めて語っていた「回想録」がこのたび四十年ぶりに白日に晒されたこ
とに世界中の注目が集まった。裁判資料として扱われているため、一般に
公刊されるのはまだまだ先のことなのかもしれない。
http://news.yahoo.co.jp/Full_Coverage/Holocaust/
■トーク・イベント「アントニオ・ネグリの思想」に訳者が集結
来たる3月11日土曜日午後2時より、新宿区大久保2−4−15のオル
タ・トレード・ジャパン内会議室にて、ピープルズ・プラン研究所主催に
よるラウンドテーブル「思想と社会運動」の一環で、トーク・イベント
「アントニオ・ネグリの思想」が開催される。報告者はネグリやガタリの
翻訳者である杉村昌昭・龍谷大学教授で、コメンテーターにやはりネグリ
の翻訳者の一人、小倉利丸・富山大学教授を迎え、六〇年代からこんにち
に至るネグリの軌跡とその現在的読解を討論する。司会は現代企画室の編
集者であり、優れた批評家でもある太田昌国氏。参加費は資料代の実費3
00円のみというのもうれしい。会場はJR山手線新大久保駅下車徒歩1
2分。明治通りに出たら左折、300メートルほど歩いた左側「サンライ
ズ新宿ビル」3F。メールによる問い合わせも可能。ppsg@jca.apc.org
ピープルズ・プラン研究所事務局まで。
■藤原書店が季刊の学芸総合誌「環」を4月下旬に創刊
ブローデル『地中海』などフランス歴史学の牙城アナール学派や、社会学
者ピエール・ブルデューらの著作を積極的に紹介し、「今時頼もしい硬派
出版社」と多くの読書人に歓迎された藤原書店は本年創立10周年を迎え
る。佳節にあたり、国内外の知性を結集し、歴史・環境・文明を問う学術
総合誌「環」(かん、と読む)を4月下旬に創刊予定。現在創刊準備号で
ある第0号が全国特約書店店頭で無料配布されている。
この第0号ではウォーラーステイン、ブルデュー、コルバン、川勝平太、
中村桂子、子安宣邦、吉増剛造といった錚々たる顔ぶれが、発刊に寄せて
エッセイを書いている。巻末には編集長である藤原社長の明快なインタ
ビュー記事があり、タイトルの「環」について次のように印象深いコメン
トしている、
「まず空間的なつながり。それぞれ地域は連動しているということ。そし
て歴史的なつながり。自分は歴史の流れの一部である、ということ。最後
に分断された諸学問をトータルにおさえること。「環」という言葉によっ
てこういった意識を喚起したい。これから新しい地平を見いだすために、
『環』はこうした「全体性の認識」を目指します」。
4月下旬発売の春号は次のように予告されている、
特集=歴史認識
シンポジウム「1850−2000年:世界史の中の日本」川勝平太、子
安宣邦、榊原英資、松本健一
「歴史を書くということ」I・ウォーラーステイン
「世界の価値尺度としての歴史」F・ブローデル
座談会「歴史学と民俗学を超える」A・コルバン、網野善彦、赤坂憲雄、
二宮宏之
「イスラームの歴史認識」黒田壽郎
他の主な執筆者:Ph・ラクー=ラバルト、J・デリダ、P・マイヤーズ、
R・ボワイエ、鶴見和子、木下順二、中村桂子、吉増剛造、小田実
連載「ブローデルの『精神的息子たち』1」M・フェロー(聞き手:I・
フランドロワ)
往復書簡:徳富蘇峰+後藤新平(解説:高野静子)
年4回発行、増刊2回予定。本体価格2000円。今夏の第2号は「特集
=日本の芸と美(仮題)」がすでに予告されている。鶴首して創刊を待ち
たい。http://www.fujiwara-shoten.co.jp
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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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第10回 現代日本浪漫派批判序説 その三(仮題)
落合信彦になりたかった
私はメディア・ジャーナルをやりたかったのに、こんなことになってし
まって。ひとつだけ、科学技術庁のハッカーの件、ネット社会の欠陥とい
う問題にされてしまいましたが、葉千栄さんの「電視台」で、同時期、大
阪で南京大虐殺はなかった集会が行われて、それへの批判という説を氏が
たてていたのは興味深かったです。大阪の名を冠する施設で、こういった
集会が行われるということは、大阪府(市)民が、そういった集会を支持
しているのでは? という中国側の猛烈な抗議をヒステリックなものとと
らえる報道が多く、実際はいま中国でおきているのは民衆的=知識人のレ
ベルでのナショナリズムの動き(日本への批判)を、実際は中国政府が抑
えているという見方がほとんどないのはこわいなぁ
そして石原慎太郎・東京都知事とダライ・ラマ、李登輝。これは尖閣諸
島あたりにいつ戦争が起きても不思議じゃないでしょう。オレは落合信彦
か(笑)。
とにかく次は石原慎太郎批判でしょう。オーストリアの極右はさかんに
とりあげられているけど、スイスのそれについては何の報道もないとか、
この「三つの」永世中立国家でおきている右翼化については早いうちに分
析しなければならないと思うのですが。
お前はただの活字にすぎなかった?
オウムとの関連で中沢新一さんが批判の対象となったとき、連想したの
は保田與重郎のことだ。日中戦争・太平洋戦争後、「美文で若者を戦争に
かりたてた」こととか、思想探偵としてのスパイ容疑で、彼は断罪される。
しかし橋川文三氏が、あるいは竹内好氏が指摘したように、彼(ら)が実
際「何をしたのか」はまったく明らかになっていなかった。犯罪があって、
断罪がおこなわれたが犯行内容は不明というところに奇異なものをみて、
橋川氏は日本浪漫派が「何をしたのか」を論じ、批判・評価を試みている
(『日本浪漫派批判序説』(講談社文芸文庫))。
中沢新一氏への「戦争責任」がとりざされるなか、その批判で私を納得
させたものはひとつもない。すべて「朦朧主義的悪美文で若者をかりたて
た」ことや、教義・思想の誤読を指摘する程度にとどまっている。
標題の「現代日本〜」はニューアカと日本浪漫派に関連性をみてみよう
とつけたのですが、直感的につけただけです。小林信彦氏が『新・死語ノ
ート』(岩波新書)でいうように、ニューアカなんてのは「雑誌のうえを
とおりぬけていっただけ」という程度の認識が普通のようだから(「軽チ
ャー」という語も84年だったことをこの本で思いだした。右翼的なテレビ
局が軽さへ変質したことは、思い出すだけの価値がある)。現象というべ
きものは、前回みた「若者たちの神々」とよばれるような、80年代後半に
顕著になった「新しい文化の仲介者たち」の出現であり、それをポストモ
ダンを想起させる消費社会=9割中流階級化との関係で、そしてまた宗教
におけるファンダメンタリズムとの関係で総合的に見直していく必要があ
ると思っています。こうした「社会科学的な」論証はライフワークになる
な(笑)。
以下、中沢新一さんへの批判・評価を試みてみようと思う。彼は何をし
たのか、ぼくは彼のどこにひかれたのだろうという問いをもって。
叙事詩人 中沢新一
『野ウサギの走り』(思潮社)所収の「逃走者のための神秘主義」は、
氏が学生のことフィールドワークでいった北海道のT町で感じたことを語
った短いエッセイである。これが氏のヴィジョンを、もっともシンプルに
表現したものだと思う。ちょっと長くなりますが、前近代から近代への移
行、そして中沢氏の仮定する未来という流れでみてみましょう。T町での
経験と村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』が経験を解読し、未来を想像さ
せるための「ステップ」として引用されています。70年代前半、「祭り」
のゼミでT町にきた青年が、T町には何にもなかったので退屈したという、
読みようによっては大変失礼な話なんですが、その退屈さゆえに中沢氏は
より興味をもったと述べます。
そこでは前近代的モデルはミスティック(神秘的な)ものを聖の領域に
封印し、システムの外部に設定することによって、システムの確からしさ
を保証させる、「聖」と「俗」の弁証法的な関係とみなされています。小
説における羊(人の身体に入り込み、ファナティックな情熱やカリスマ的
な力をよびおこしていくスピリチュアルな存在)がここに相当します。
近代モデルは、システムを保証していたミスティックなものが、その役
目から降り、システムはその無根拠性をあらわにし浮遊しつづけるものと
表され、外部にでたと思ったらまた内部に戻るメビウスの帯のようなもの
と表されます。
近代というものに対する二つの態度がここで描かれます。それは学生た
ちの態度で、自分たちが感じとっていた時代への危機感のようなものに対
して前近代のモデル(「生の充実」「解放」「力の源泉へのあこがれ」)
に遡行することで失われたものを想像的に奪回しようとする」態度。しか
しこうした態度は氏によって「後ろ向き」とされています。
そしてもう一つ、「市民的な日常生活への反撥や非日常的なものへのあ
こがれだとか、ありきたりの合理的知性ではとらえがたい精神領域へのあ
からさまな感心だとか、あるいはもっと大げさに文明全体がつきすすんで
いく行末にたいする不安だとかが次第に姿を消して、かわって水平的な現
代というものを肯定的に生きていく方法を探る」態度、北海道・T町の青
年たち、小説の主人公「僕」のような、が描かれます。
近代に対する後者の態度の中に、さらに別の態度を中沢氏は見いだしま
す。それは「(昨今の)若者文化のなかにみられる新しい宗教的な感性」
であり、それはこの脱出ということに新しい意味づけをおこなおうとして
いる、と語られます。脱出の方法は「かつての宗教的神秘家たちのように、
意識体を構成しているあらゆる粗大で稠密なものの引力圏をつきぬけて、
軽やかで微細な差異がより高次のオーダーの中で運動するミスティックそ
のものの動きをたどろうとすることによって」です。この方法はさきの「
新しい宗教的な感性」をもっていることが必要とされる、つまりこうした
感性をもつこと自体が、方法となっています(彼はチベット、バリ島の体
験でこうした感性をもつにいたった)。この脱出こそ、中沢氏のヴィジョ
ンといえるでしょう。
こうした脱出が可能かどうかは分からないが、新しい宗教的な感性はそ
れを示している・・・・・・ここには氏の感性、直観への偏重がみられる
と思います。氏がしめす「リアルであること」への関心も、それを証明し
ているように思われます。
感覚、リアル、実感。ここではとりあえずベルグソンの世界の認識方法
を簡単にみることにします。ベルグソンは、認識には、対象との間に距離
をおいて行う認識の仕方と、対象と一体となって行う認識の二つの方法が
あるが、前者はものを分離・分析する科学的・論理的知性の働きであり、
後者は論理を超えた詩的直観の働きである。生命は物質とは異なり、絶え
ず生成変化し流動するものであるため、知性は決してその運動性をとらえ
ることができない。そこでベルグソンは、知性よりすぐれた認識能力とし
て直観に着目し、直観の働きによって、対象を一気に把握する「一体性に
よる認識」が、生命の領域において可能となるとします。詩人のような芸
術家、彼らこそこうした直観をそなえる者である、と。
中沢新一氏は80年代後半にあらわれた類まれなる叙事詩人だったのでは
ないか。森羅万象あらゆるものはすべて、彼のヴィジョンを表現するため
の引用、あるいは比喩となっているのではないか。知性より直観を「優れ
た」とするところでベルグソンと中沢氏はつながるまでも、ベルグソンは
あくまで無生と自動との秩序である「物理秩序」と、生き物ないし意志さ
れたものの秩序である「生命秩序」とをまったく異なる世界として区別し、
別のものとした。しかし中沢氏においては異なる。彼をいっさいを「思考
のもつ物質性」のなかに一体化させてしまう。ここにある決定的なカテゴ
リー・エラーは批判されるべきだと私には思われます。
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■「一字千金の記」/グッドスピード
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「デジタル社会論」
誤植を指摘するのは、アラ探しに似て、自分が嫌な奴になってしまうよう
でなんとも心穏やかではないのだが、校正という仕事と考えればむしろ「仕
事熱心」で「校正力」があり、「信頼できる」人となるはずのものである。
仕事ができる人が「いい人」とはかぎらないし、もちろん「いい人」が仕事
熱心ともかぎらない。至極当然のことではあるが、いやーなんともこの業
界はたいへんである。
さて、今回は、著者自身から「誤植が多くて」と言われた本を取り上げる。
私が「新刊、面白そうな本ですね」と申し上げた返答として、著者は上のよ
うに言われた。私はもちろん「ご謙遜」と受け取ったのだが、頭の片隅にほ
んの少し「疑い」を持ってしまい、それが日に日に大きくなってしまった。
ジャーナリストの武田徹氏による『デジタル社会論』(共同通信社)がそれ
である。この本は、書名が表しているとおり、インターネットに象徴される
高度情報化社会、デジタル化社会の実情を取材し、著者ならではの鋭く深い
考察が試みられているルポ集である。
内容は実に面白い。この種の本や専門誌にありがちな、独り善がりで偏向な
ところも、反動的にジジ臭い(説教臭い)保守的なところももちろんなく、
冷静な眼による地に足のついたルポになっている。それに、親切ながら、本
文で言及されたサイトのURLが欄外に記されている(このURLで実際にサイト
を覗くのも、さながらハイパーテキストのようで楽しい)。さらに誤植を発
見できた喜び!?も相まって、ハラハラドキドキの読書体験だった。でも「
誤植が多くて」というほど誤植は認められなかった。
(武田さん、しばし眼をつぶっていてください)
まず、目次(2ページ)。「1 デジタル戦線、異常あり」とあるが、本文
の節(章)タイトルおよび柱は「1 メディア戦線、異常あり」となってい
る。本文の内容から判断しても、これは明らかな目次の間違い(目次って案
外見落としちゃうんだよね)。
49ページ。「3 広告ビジネスとネット社会」において。
「とはいえ、そこで僕が書きたい放題も書いていたら、なぜ自分が経常を支
えている媒体に噛みつかれるのかと今度は広告主側が不快に思ったはず。
……」
記事と広告の関係について語っていることから、「経常を支える」とはやは
りおかしいだろう。「経営」の間違いではないか。
101ページ。
「6 世紀末のデジタル宗教改革」において、ホームページ上で参拝ができ
たり、おみくじが引けるとうたう動きに対する東京都神社庁のコメントとし
て、『産経新聞』から引用している一文。
「神社にお詣りするというのは、両面をおがめばいいというものではありま
せん。おみくじも社頭で引いてこそ意味があるのです。……」
ここではヴァーチャルな宗教経験について言及しているので、「両面」では
なく「画面」ということになる。
105ページ。おなじく「6 世紀末のデジタル宗教改革」において。
「しかし、それがかえって現実の自分との解離を意識させ、本人を傷つける
場合がある。……」
「自己演出」しがちなネットワークの中の自分と、現実の自分との対比を語
っていることを考えると、「解離」ではなく「乖離」。同じ音なのでワープ
ロの変換(入力)ミスだろう。
ちなみに国語辞典によると、「解離」は、「1、とけはなれること。また、
ときはなすこと。2、化合物が加熱溶解などによって、その成分に分解し、
しかもその分解が可逆的であるもの」である。一方「乖離」は、「そむきは
なれること」とある。
私が認めた誤植はとりあえず以上である(他にもあるかもしれないが)。
これらの誤植そのものに意味はない。字面が似通っていたり、音(よみ)が
同じだったりの間違いである。
著者には申し訳ないが、ちょっぴり爽快な読後感なのは、やっぱり私が嫌な
奴なのかしらん。でも、(言い訳がましいが)内容が面白くなければ、誤植
探しも苦痛以外のなにものでもないことは言っておきたい。
(第7回・了)
●活字版「VOW」のネタを募集しています。本や雑誌などで見つけた面白い
「誤植(誤字)」がありましたら下記のアドレスまでお知らせ下さい(謝礼はで
ません)。
E-mail:ryuz@cf6.so-net.ne.jp(グッドスピード)
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■「虚実皮膜の書評」(「私小説的書店員」改題)/キウ
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「無情の世界」 阿部和重 講談社 99.1
もう一年以上前の作品集であるけれど、現時点での最新作であり、野間文
芸新人賞受賞作。
阿部和重の作品を読むときに常につきまとっていた殺伐とした感じは、こ
の作品集において、さらに突き進んでしまっている。
発表年代順に、三編収まっている。はじめに「トライアングルズ」。スト
ーカー男の話。男はある女性に惹かれ、その女性のことを、自分と関係性を
持つ前の客観的な姿として観察したいと考え、様々に調査を繰り返し、その
女性がある男と不倫の関係にあることを突き止める。苦しむ男はその不倫を
中断させるために、その不倫相手の男の家に家庭教師として入り込むことを
考え、女性に近づき、(この時点でその女性と親しくなるという目的は達成
されているにもかかわらず)元教師と偽って不倫相手の家庭に入り込む。そ
してその家庭の様々な問題点にお節介を焼き、ドタバタ騒ぎを起こして失踪
する。・・・・・・
語り手はその家庭の小学生の男の子。家庭教師として侵入した男はその子
供と仲良くなり、これまでのストーカー行為や不倫についての経緯を話す。
小説は、その男の子が父親の不倫相手の女性に、すべてを手紙に書いて送る
という体裁でつづられている。
収録作三編の中ではこの作品が一番よい。初期の「アメリカの夜」や「 A
BC戦争」(いずれも講談社)にあふれていたユーモアが戻ってきているし、
主人公のストーカー男の奇妙な善意や思いやりが、現実の舞台では(当たり
前だが)まったく通じずに周辺をパニックに陥れていく様は、アイロニーを
さえ感じさせる。作品中にプラトンの「パイドロス」からの引用があるのも
示唆的。この主人公はこんなに狂っているけれど、主人公の飛び込んでいっ
た「一般的」な世界こそ、狂ってはいないだろうか?
次に「無情の世界」。わずか二十頁の短い作品。表題作だけれど、今ひと
つ。少し被害妄想的な高校生の男の子が主人公。ネットで露出趣味の女性の
ホームページを見ていた主人公は早速夜中の公園に出かけてみるのだが、そ
れらしき女性をベンチに発見。オナニーをしてから近づいてみると、なんと
その女性は手を縛られて死んでいた。しかもその死体にさわってしまい、強
姦殺人事件に巻き込まれてしまう。
小説というものが何らかの世界観を提示するものであるならば、この作品
がそれを成し得ているかというと疑問。こちらの心に切り込んでくるような
ものは何も感じられなかった。ある意味で殺伐とした現代という世界を提示
できてはいるのかもしれないが、文学はむしろ現実と対峙するような形でそ
の世界を表現すべきではないだろうか。
最後に「鏖(みなごろし)」。タイトルの通り、なんともやりきれない話
だ。主人公オオタはかなりいい加減な男で、なにかうまくいかないことがあ
るとすぐにキレて、自分のせいであっても他人のせいにして怒る。その日暮
らしで、アルバイト先で金品を盗んで金を作っては派手に使い込んでいる。
夫のいる女と不倫中。アルバイト先の経営者に盗みがばれてしまい追われて
いる。
オオタが逃走中に、レストランで偶然相席になる男がもう一人の主人公と
もいえるだろうか。その男はオオタの目の前で液晶テレビで自分の家の様子
をうかがい見ている。自分のうちに隠しカメラを仕掛け、妻が不倫をしてい
るらしいのでその現場を確かめるのだという。そんなことを偶然相席になっ
たオオタに話し始める男も妙だが、オオタも自分が不倫中なのでその男の行
動にキレてしまい、散々にけなす。そのときまさに液晶画面に自分の妻の不
倫現場を確認した男は、オオタに蔑まされたこともあって逆上してしまい、
妻と不倫相手を殺すために家に戻る。このあたり以降の展開は小気味よく、
筒井康隆のドタバタ劇にも通じるものを感じさせる。
結局多くの人間が金属バットで殴られて倒れていくことになるのだが、果
たして、ここで描かれている滑稽な人物たちを読者は笑うことができるだろ
うか。オオタは好意の寄せようがない人物として描かれているが、自分の家
を隠しカメラでのぞいている男はどうであろうか。「トライアングルズ」の
家庭教師のようなユーモアを感じなくもない。しかし「トライアングルズ」
ほどには素直に受け入れ難いものが残る。どことなく情けないし狂ってもい
るけれど愛すべき人物。「鏖(みなごろし)」では、そのような愛すべきキ
ャラクターを、オオタといういい加減な人間によって、さらに狂わされてし
まうところがやりきれず、素直に笑えない。しかしそのような対峙こそ阿部
和重のひとつのテーマなのだろう。
オオタの住む世界。行き先のない日常、方向性を持たない怒り。しかしそ
れがどうしたというのだろう。そんな当たり前のことを書かれても、もう誰
も驚きはしまい。そのような日常にうんざりしている読者に、これ以上殺伐
とした現状を押しつけても顔を背けるばかりだろう。だから自分の家を隠し
カメラでのぞいている男のような存在を、オオタの住む世界に突き立てて、
壊していくことが必要なのだ。そうでなければ、このような作品においては
何ひとつ今の社会に抗することはできない。
やりきれなさと、そのような閉塞感に風穴をあけていくような存在との拮
抗が、もう少し後者の側に力点が置かれると、「トライアングルズ」のよう
な、ある種爽快感さえ覚えさせる作品となっただろう。
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■「美人書店員の赤裸々な日常」/あくびちゃん
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倫理「25」
前回ご紹介した森巣博の新刊『無境界家族(ファミリー)』が集英社から発
売された。 「小説すばる」誌1998年10月号から2000年1月号まで
に掲載れた作品を纏めたものだ。随所に脱線はあるものの、ベースはタイト
ル通り彼の家族の話だ。この本を読んで初めて知ったのだが、『グローバリ
ゼーションの中のアジア』(未来社)の著者でもあるテッサ・モーリス・鈴
木は彼の妻である。賭人の妻が世界的に高名な学者。納得のいくような、附
に落ちないような。余談だが彼女の名前から推測するに、彼の本名は鈴木と
いうのだろう。で、この夫妻の息子が、これまた良くできた子どもらしい。
ただ、この話題はあんまり関心がないので、親バカぶりを知りたければ、本
書を読むべし。育児書としても十分読めるはずだ。
前作『無境界の人』が面白かったので、タイミングの良いこの新刊を結構楽
しみにしていた。しかし、一読して少しがっかり。彼の面白さは本書の脱線
部分である「日本人論」批判や「日本文明論」批判なのだが、本人も文中に
書いているが、編集者から家族について書いてくれという要望が強かったよ
うで、その辺りはあまり突っ込みがなく、すぐに家族の話に戻ってしまう。
しかもこの脱線部分は前作とかなり被っており、あまり発展性がない。原因
は良く分からないが、私の周りに今前作の『無境界の人』を手にとっている
人が多い。前作の内容も、今読めば旬のものなので、ぜひ今回の新刊も森巣
流国民国家論批判を展開して欲しかった。もったいないことをしているなあ
と思う。ものすごい偏見だけれど、大手でも新潮社辺りだったらもう少し違
った作りになっていたのかなあなどと、自分の書評の下手さは棚に上げて思
った。
決してつまらないわけではない。ただ、家族のことよりももっと他に、彼は
面白いことを書けるはずだ。そういう話を期待していたわけだし。編集者の
仕事って大変なんだなあ。
前述の通り、旅行をきっかけとして「日本人て一体なんだ?」という関心か
ら始まったのだが、一ヶ月経ってみて考えたのだが、自分自身が狭い意味で
いろんなことをカテゴライズしてきたなあと思う。
小・中・高を通して行ってきたいくつかの悪事。これを正当化するために
「だって、みんなやってるよ」と言い訳をしてきた。しかし、いま「ちゃん
と就職しなさい。25歳というのは自立する年です」とか「年相応の格好を
しなさい」という親の小言に対して「みんなと一緒にしないでよ」などと反
抗する。「みんな」と一緒だったはずなのに、「みんな」と一緒にされるの
が嫌になっている。一体この転換はいつ起きたのか?
大体「みんな」ってなんだ?
そんな私の疑問を解くための手がかりになりそうな本に出会った。柄谷行人
の『倫理21』(平凡社)。『探究』を3ページぐらいで挫折して以来、近
寄らなかった柄谷の著作をとりあえず読破できたことに感動。書かれている
ことを正確に理解しているかどうかはあやしいけれど。
「子どもの犯罪は親の責任なのか?」という、らしからぬ宣伝文句を書かれ
た帯が巻かれている。身近な事件をきっかけにしているので大変入りやすい
。しかし、中心は、先の事件にはあまり触れない、カントの三大批判を援用
した、柄谷流「倫理って一体なんだ?」本です。
道徳とはふつう共同体規範が決めた善悪の問題、あるいは功利主義と考えら
れている。これに対してカントはいずれも批判し、普遍的な道徳の問題性の
問題は自由であるか否かにあるとした。柄谷氏は戦争責任の問題を考えるに
当たり、こうしたカントの考えを元に、共同体(世間)とはなにか、自由と
は何か、という論考を展開していく。
反抗期にある私は、こうした共同体(世間)なるものに一括りにされるのが
とても嫌で、この言葉にとても反発を感じる。だから円地文子の『食卓のな
い家』(読売新聞社)を引用しての共同体(世間論)は面白かった。ここだ
けでも、面白ければ十分で、後はスピノザとか、それこそカントの話が一杯
出てくるのだが、理論の展開は解かるけれど、自分の言葉で説明するにはも
う少し時間がかかるので書きません。開き直っちゃいます。あんまりにも、
私的なことが絡んでるので書けないというのもあるかな。
少年犯罪が多発しているのは社会が病んでいるからだとか、精神的に問題が
あるとか知ったようなことを書かれた本を読むより、本質的なところに問い
を向けている本書を読むほうがよっぽど役に立つと思う。
「初」の書き下ろし評論、どうぞご一読を。
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■あとがき
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>駸々堂が自己破産したじゃないですか
>はあはあ
>自己破産が決まった日、駸々堂出版の倉庫に某中小取次ぎがやってきて、
「出版社の方には了解取っているから(もちろん嘘)、商品よこせ」とか
言って、勝手に持ち出そうとしたんだって
>そりゃ、ひどい話だね
>でも、倉庫の人が、こりゃ怪しいていうんで、渡さなかったんで、商品
は無事保全されたらしい・・・某H! 恥ずかしくないのかいね
>いや、ルールは守りましょうね
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