2000.11.5.発行 vol.50  [新世紀人、がんばる号]

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■CONTENTS----------------------------------------------------------- 
★トピックス

★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→写真における「リアリズム」とは? 写真家・植田正治氏追悼。

★「虚実皮膜の書評」/キウ
→日本近代文学のあけぼのを読む。筑摩書房『明治の文学』刊行開始。

★「一字千金の記」/グッドスピード
→活版時代は校正に勇気が必要だった。デジタル時代の校正を考える。

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■トピックス
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■ペヨトル書籍救済サイトオープン!

専用ML、メールマガジン、冬弓舎さんで書籍企画進行中の『ペヨトル書房
興亡史』、と大いに盛り上がってきていますが、諸姉兄はすでにご参加され
ましたか? 今度はウェブサイトが立ち上がりました。小誌臨時増刊号「バ
イオポリティクス」でも取り上げた冬弓舎さんがページを提供されています。
フォーマットはMLの会員の方が速攻つくられたとのこと。ご覧下さい。
http://www.thought.ne.jp/peyotl/ 

■アマゾン・ジャパンいよいよ始動

あたかも「黒船来航」のように噂されていたオンライン書店アマゾン・コム
が日本でも営業を開始した。来春のオープンという話であったが、11月1
日にアマゾンのCEOジェフ・ベゾスが来日し、記者会見と同時にアマゾン
・ジャパンのサイトがオープンした。bk1、BOLなど、今年は日本のオ
ンライン書店元年といえるかもしれない。オンライン書店の競争が激化しそ
うだ。取り扱い冊数、きめこまかな情報提供、カスタマーサービス、各書店
の特色などが、競争に勝ち残るカギになるのだろう。
http://www.amazon.co.jp/ 

■国際学術プロジェクト『トレイシーズ(Traces)』創刊

岩波書店の『思想』の別冊として『トレイシーズ(Traces)』が創刊。世界16
の地域の知識人を組織し、日英独中韓の5つの言語で同じ内容がそれぞれ刊
行される。第1号は、特集「西洋の亡霊と翻訳の政治」で、米コーネル大学
の酒井直樹氏の責任編集。「西洋とその他者」「地域的なるものの政治学」
「翻訳と近代性」といった主題について先鋭な論文が寄せられている。また、
「『トレイシーズ』のために」では、J=L.ナンシー、柄谷行人、J.デリダ、
姜尚中、G.スピヴァク、H.ハルトゥーアン、守中高明、崎山政毅などがそれ
ぞれ一文を寄せている。注目したい雑誌の一つだ。

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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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第18回 私写真論批判序説 その1

追悼・植田正治

 写真家・植田正治さんが7月6日亡くなった。享年88才。『アサヒカメ
ラ』『日本カメラ』といった月刊カメラ雑誌が、9月号で追悼特集をくんで
いる。狐の面をかぶった少年が砂丘からポンと飛び出し、宙に浮いている
「子狐登場」、背広姿の帽子をかぶった紳士が正面を向いて、風船を持って
丘にたたずむ「風船をもった自画像」といった写真は、彼の名前を知らない
人でも、どこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。氏の文章をま
とめた本としては唯一の本だった『植田正治 私の写真作法』(金子隆一編)
は99年2月に出版されたが、版元の光琳社出版が倒産したため幻の書となって
いましたが、今年9月、TBSブリタニカから復刊されることになったのは
ありがたい。

 「若い新世紀の舞台は遥か宇宙へと広がって行くに違いない。この世紀の
主役は若い者たちの時代だ。私は、いま心からエールを送りたい。がんばれ、
新世紀人。」(『日本カメラ』2000年9月号・91ページ)。さすがは1900年
代初頭のルネ・マグリットやダリといったシュルレアリズムの影響を色濃く
うけた氏のことばだ。20世紀初頭、人類の夢は宇宙とともにあった。「私の
新しい絵は地球だけに属するものではない。地球は白蟻にやられた家のよう
に捨て去られる。そして、人間は本当に自覚して空間を捜すのだ。「彼は地
球から逃げること」を願っている」。ロシアアヴァンギャルド、シュプレマ
ティズムの画家マレーヴィッチのこんなことばとも植田氏のことばは交差し
て、僕らをアジテートする。やっぱり宇宙に行かないと。
 「ファインダーはわずか方寸の空間にすぎませんが、その中に自分を没入
することができたら、そこに展開する世界は肉眼のそれにもまして、無限の
ひろがりをもつ天地となることは私がいうまでもないこと。(略)報道や記
録の目を忘れた、というより、もっと自らの心を大切にとねがうそんな私的
な写真の世界は、時代に逆らった、おろかな写真の方法論なのでしょうか」
(「植田正治写真作法」『アサヒカメラ』2000年9月号60ページより引用、
前掲書234頁)。
 
 とかくその演出性で語られることが多い氏の写真だけれど、その演出は
「自らの心を大切にとねがう私的な写真の世界」に不可欠なものである。
「報道や記録の目をもった」絶対非演出を唱える社会的リアリズムに対して、
植田氏の写真はあくまで自分の心的なリアリティを追求していくものだった
といえるでしょう。

リアリズム再考
 
 さてこの心的なリアリズムと社会的なリアリズムの分岐は、文学における
批評用語としての「リアリズム」の変化と対応しています。まず「リアリズ
ム」という語は、観察したものを芸術に表現する場合の、その精確さと迫真
性をあらわすための単なる用語としてまず使用されていました。それはルネ
サンス以後、伝統的な英雄的・ロマン的・伝説的主題と対立する、「普通の、
同時代的な日常的な現実」ということに立脚していました。誰の日常的な現
実かといえば、上昇する中産階級、ブルジョアジーのそれであり、劇として、
そして小説として表現されたのです。
 
 18世紀後半からこの日常的な現実という枠のなかで、不愉快なもの、貧乏
人たち、汚いものに特別の注目を向ける傾向を示すようになります。ブルジ
ョア芸術家たちの日常が無視するこうした題材をさらに多く選択するリアリ
ストたちの進歩的・革命的運動の側に、この「リアリズム」という語はつい
たのでした。
 そして20世紀の主要な進展として、リアリズムという語は「心理的現実へ
の忠実性」という意味での用法が広く用いられるようになります。多くのさ
まざまな種類の芸術的手法によって、しかも題材は普通の、同時代的な、日
常のものに限定しなくても、私たちはある経験の現実性を確信できるという
のがその主眼です。リアリズム小説において、ここでさらにいっそう重要な
分裂が起こります。それが「社会的」小説と「個人的」小説への分裂でした。
この分裂は、「社会的小説には、全般的生活、つまり集合体の精確な観察や
描写がありえようし、個人的小説には個々の人物、つまり一個体の精確な観
察や描写がありえよう。しかしそれぞれが広がり(dimension)を欠いている
のである。何故なら、生活の仕方は、集合体でもなく個体でもなくて、不可
分の相対的過程だからである」(参考・引用R・ウィリアムス『長い革命』
ミネルヴァ書房)。
 
 R・ウィリアムスは、現代におけるこの個人的小説と社会的小説のそれぞ
れにおけるひろがりのなさに、危機感ををもち、リアリズムの新しい定義を
考えることによって個人と社会の新しい関係を構想しようとする。写真にお
いては、どうか。

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■「虚実皮膜の書評」/キウ
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『明治の文学 第五巻 二葉亭四迷』 坪内祐三編集 筑摩書房 00.9

 筑摩書房『明治の文学』第一回配本は二葉亭四迷と樋口一葉。まず、二葉
亭四迷を読んでみた。

 収録作品は「浮雲」「平凡」「あひゞき[ツルゲーネフ]」「あひゞき[ツ
ルゲーネフ](改訳)」「余が翻訳の標準」「余が言文一致の由来」「私は
懐疑派だ」「予が半生の懺悔」。解説は高橋源一郎。

 二葉亭四迷は読んだことがなかった。言文一致だという。今なら普通のこ
とが、なんとなく物々しい。言文一致といったところで読み難い言い回しも
残っているだろうし、時代の背景も見え難いだろうし、舞台装置も分かり難
いだろう。敬遠していた。

 しかし、このシリーズはいい。ルビが多いし、注も図版つきで、本文の下
にほどよく配されている。この機会にこのあたりの作家を読んでおこう。そ
んなつもりで購入した。

 「浮雲」は割と普通の心理小説。役所に勤める内海文三は人員整理で免職
されてしまう。下宿している叔父・叔母の家では、娘のお勢とはっきりはし
ないけれど、恋愛感情らしきものが続いていた。叔母も乗り気だったのだけ
れど、免職されると分かるや、手のひらを返したように文三につらくあたり
、そのころ上役に取り入って昇進した元同僚の本田が出入りをするようにな
り、叔母はお勢を近づけたがる。純粋な愛を信じていた文三はだまされたよ
うに思い憤るが、煩悶するばかりで、ことはうまく進まない。ついにお勢と
も衝突してしまい、揺れ動く心の中で、このままお勢とうまくいかないのな
ら、叔父の家を出てゆこうと決意する。明治二十年から二十二年の作品。

 「平凡」はそれから二十年後、明治四十年の作品。作風が大分変わる。小
説という形態を借りながら、その書き手の舞台裏を見せてしまう。私はこん
なふうにつまらん人生を送ってきました、といったふうに書く。題名を決め
る件りも作品中に現れる。この件り、なかなか面白いので引用してみる。

  さて、題だが・・・・・・題は何としやう? 此奴には昔から附倦んだ
 ものだツけ・・・・・・思案の末、礑と膝を拊つて、平凡! 平凡に、限
 る。平凡な者が平凡な半生を叙するに、平凡といふ題は動かぬ所だ、と題
 が極まる。
  次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云
 つて、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加へず、有
 の儘に、だらだらと、牛の涎のやうに書くのが流行るさうだ。好い事が流
 行る。私も矢張り其で行く。
  で、題は「平凡」、書方は牛の涎。(P226)

 こんな調子で、書き進む。言文一致、写実、自然主義といった流れを作っ
た先駆けの人間が、その流れを風刺する。

 このあたりの経緯は高橋源一郎の解説を読むと楽しい。

 ツルゲーネフなどの翻訳を通じて、日本にその文学を表現する形態が存在
しないという事実に突き当たり、その試行錯誤の中から言文一致という流れ
を生んでゆく。江戸っ子の二葉亭四迷は落語の語りを利用する。先輩に、も
う少し上品に、言語を文章に近づけて、といわれたりもするが、「国民語の
資格を得てゐない漢語は使わない」(P414)と、日本語内の外国語である
漢語とも格闘する。

 しかし二葉亭四迷にとって文学は人生の第二義だった。実人生ではない。
そこに言語の限界があった。「要するに、書いてゐてまことにくだらない。
子供が戦争ごツこをやツたり、飯事(ままごと)をやる、丁度さう云つた心
持だ」(P417)。

 「人生、々々、といふが、人生た一体何だ。一個の想念ぢやないか。今の
文学者連中に聞き度いのは、よく人生に触れなきや不可と云ふ、その人生だ
。(中略)触れる云々は形容詞に過ぎんやうに思ふ。(中略)にも係らず其
無意味のことに意味をつけて、やれ触れたの、やれ人生の真髄は斯うだのと
云ふ。一片の形容詞が何時の間にか人生観に早変りをするのは、これ何とも
以て不思議の至りさ。」(P423)

 ラジカルである。こんな人間が明治を駆け抜けた。言葉と、それによって
紡ぎ出される文学の限界と可能性について、ここまで考えていた人間が、百
年前にいた。現代の作家たちは、ここまで徹底して文学を疑った上で、小説
を書き得ているのか。

 日本近代文学誕生を用意した人間は、その限界にまでたどり着いてしまっ
ていた。

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■「一字千金の記」/グッドスピード
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「デジタル時代の校正」

 活版時代の出版物を手にしたり、観ることはあっても、実際に活版で本を
作ったり、編集作業をしたことはない。私が編集や校正の仕事をはじめた時
はすでにデジタルなテキストの時代になっていた。そのため、ワープロやパ
ソコンは必須であった。

 活版時代は、当然のことながら、活字に組んでからの校正はたいへんなこ
とである。文字の直し(たとえば1字の誤植を正しい1字に直すとき)など
はなんてことはないが、言い回しを直したりして字数が変るとたいへんだ。
行が変り、ページが変ると、とてつもない時間と労力がかかる。話によると
当時は編集者や著者よりベテランで年配の植字工が偉いこともあったから、
あまり無理は言えない。そこで、行を変えず、ページを変えないように、字
数を合わせて「表現=言い回し」を直していた。
 言ってみれば、俳句や短歌(定型詩)のように、限られた字数のなかで、
表現を考えていたのである。植字工、活字工に対する罪悪感から、自己抑制
が働いていたのだ。だが、これは「しかたのない」ことではない。その自己
抑制が豊かで新しい表現を生み出していたともいえる。

 数々の制約があったからこそ、書き手は慎重に、充分に吟味して第1稿を
作っていた。それが文体の強度となり、表現の強度となっていたといえるの
ではないだろうか。
 それがいま、「表現」の自由は格段に拡大した。デジタルなテキストによ
り訂正も簡単にできるようになった。それに、工程の時間もずいぶんと短縮
されることになった。締切ぎりぎりでもファックスやメールで原稿を送るこ
とができるようになったのである。
 もちろん、そのメリットは大きいと言わざるを得ない。しかし弊害もまた
あるのではないだろうか。

 簡単に言えば、「表現」の自由の拡大により、表現に強さというか鋭さが
なくなってきているということ。やたら表現が冗長となり、無駄な文章が作
られるということがあるのではないかと、「活版時代」の文章に触れたりす
るととくに感じられる。
 もちろん、懐古趣味的に、活版時代の復活を唱えるつもりもないし、それ
はあまりにも非現実的なことだが、デジタルなテキストの時代になっても、
第1稿を作る際の緊張感は欠かせないものだと思う。同時に、その原稿やゲ
ラを校正する際の緊張感も。おそらくその「現場」でしか表現は鍛えられな
いのではと考えるからである。

 政治的に「表現」が不自由な時代の表現に、ある種の「強さ」が観られる
ように、制約の多かった活版時代の表現といまのデジタル・テキストの時代
の表現は、やはり違うように思う。
 小説にしろ書物にしろ、そうやって作られてきたことを考えるにつけ、緊
張しなくちゃ、と思う。表現の試行錯誤が簡単にできる時代だからこそ、デ
ジタルな文字がキー・ボードひとつで変更可能な時代だからこそ、その慎重
さが求められる。

 完全原稿を締切を守って作っていた書き手に三島由紀夫がいる。また、江
藤淳は決められた字数をほとんど完璧に守っていたといわれる。
 いまや表現を鍛られる契機など、誰かにぼろくそに批評されるくらいしか
なくなっているが、読者あるいは校正者としては厳しい眼で、書き手として
は自戒を込めて「表現=文字遣い」を吟味していきたいと思う。
(第15回・了)

●活字版VOWのネタを募集しています。本や雑誌などで見つけた面白い
誤植(誤字)を下記のアドレスまでお知らせ下さい。
ryuz@cf6.so-net.ne.jp (グッドスピード)

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■あとがき
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本誌の読者数が10月に3000人を超え、今号で50号を迎えました。これはひとえ
に読者のみなさんのおかげだと思っています。ありがとうございます。これを
機に、今月臨時増刊を発行する予定です。ご期待ください。今後も良質な情報
と話題、議論を提供できるよう力を尽くしていく所存です。今後ともどうぞよ
ろしくお願い申し上げます。50号のごあいさつとさせていただきます。(グ)
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■CONTENTS----------------------------------------------------------- 
★トピックス
→改訂・休刊・新刊、イベント情報

★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→読みごたえあり!好評連載の「私写真論批判序説」3部作完結編。 

★「虚実皮膜の書評」/キウ
→言葉・描写の喚起力を取り戻した大江健三郎の新作。

★「一字千金の記」/グッドスピード
→校正でもっとも大変なことは? 文章を生かす用字法。

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■トピックス
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■講談社の好評シリーズ『日本の歴史』01改訂へ
『日本の歴史』シリーズを刊行中の講談社は、先ごろの石器発見の捏造事件
にからみ、01の『縄文の生活誌』(著者・岡村道雄文化庁主任文化財調査
官)の販売を見合わせ、今年初夏までに改訂版を出すことに決めた。
この問題は、考古学界にとどまらず、出版のありかたをもめぐり各界に波紋
を及ぼしている。

■『内田魯庵山脈――失われた日本人』(晶文社)刊行記念ライブトーク
講師=山口昌男・高橋徹。1月10日19時〜21時、青山ブックセンター
本店カルチャーサロンにて。無料。定員120名。要予約。予約・お問い合
わせは青山ブックセンター本店(電話03−5485−5511)
http://www.aoyamabc.co.jp/

■『週刊宝石』休刊
光文社は『週刊宝石』を1月25日発売号を最後に事実上休刊することを決
めた。5月の最終週から新しい週刊誌を発行する予定だが、雑誌名を『週刊
宝石』とするかどうかは未定。あの業田良家の名作『自虐の詩』もこの雑誌
に連載されていたことを考えると、少し残念。パワーアップを期待したい。

■大西巨人の《幻の処女長篇》『精神の氷点』刊行
某文芸誌のアンケートに20世紀を代表する日本文学作品として『神聖喜劇』
があがっていた大西氏の初期長篇がいよいよ出版される。なにはともあれま
ず読んでみたい。1月5日発売。2200円。
http://www.msz.co.jp/

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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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第20回 私写真論批判序説 その3(終わり)

 杉山正樹著『寺山修司・遊戯の人』
 みなさんは寺山修司を読んだことがありますか。十代のころに寺山に出
会った人は、やはり衝撃をうけたのではないでしょうか。思えば十代の後
半、ずっと読んでいましたが、忘れていました。先日出版された杉山正樹
著『寺山修司・遊戯の人』(新潮社)という本を読んで、そのことに気づ
かされました。私にとって寺山という経験はなんだったのか。寺山修司を
語る本書を読んで、虚構と現実の関係、現代アートについて、より深く考
えることができるような気がしています。

 悪口のすすめ・書を捨てよ、町にでよう
 さてここで批判されるべき「私写真論」として念頭においたのは、写真
評論家・飯沢耕太郎氏の『私写真論』(筑摩書房)における「私写真」で
した。その前に、本書はどのような内容なのかを簡単に要約します。
 飯沢氏は巷にあふれる「私写真」ということばの濫用を憂いて、「私写
真」をしっかり定義しなければならないと言いつつ、きっちりはしたくな
といいます。? ですが、なぜなら「特定の、限定された解釈の幅の中に
押し込めるのではなく、もっと風通しのよい概念として開いて」いきたい
からだと言います。
 
 飯沢氏の文章から推察するに「私写真」とは、撮影者の「私」が決定的
な役割を果たしている写真、あるいはその写真が撮影者の生の条件を直接
的に映し出しているもののようです。幸福な家族、身近な人々の笑顔とい
うポジティブな面だけではなく、怒りや嫉妬といったネガティブな感情を
も「作品」にしているもののようです。
 「私写真」をこのようにとらえたうえで、中平卓馬、深瀬昌久、荒木経
惟、牛腸茂雄という四人の写真家をとりあげ、彼らの写真表現に賭けた
「凄絶な」実践を語ることで、飯沢氏は「私写真論」を試みています。
 
 これに対する私の批判は以下のようなものです。たとえば飯沢氏がよく
引用する荒木氏の「もう我慢できません。・・・・・・たまたまファッシ
ョン写真が氾濫しているのにすぎないのですが、こうでてくる顔、でてく
る裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません」
という、『センチメンタルな旅』の有名な宣言にしても、俺の目の前にあ
る写真は俺のものではない、という叫びであり、嘘っぱちの写真が溢れる
メカニズムのなかで生きざるを得ない者の叫び(限定1000部!!)だった
と思う。「私写真」を語るならば、こうした機構と飯沢氏のいう「私写真
家」たちとの緊張関係について少しは言及すべきだろうと思います。
 
 また通常、プロの写真家、つまり写真で生計を立てている人たちは、仕
事の写真とプライヴェートな作品を撮りわけていたりするわけで、そうし
た多くの写真家の営為については無視され、「私写真」ではないとされて
いることから、本書はまぎれもなく、あくまで飯沢氏の「私」だけの写真
論なのでしょう。
 他人と共有されることを望まない、この独白でしかないものを、なぜ本
にしたのだろうか。それはアマチュア写真家にむけて、自分の気持ちを写
真で表現するとはそんなに甘いことではないよ、と4人の写真家の「劇的
な」人生を例に説教したいがためとしか思えない。つまり「私写真」であ
るかどうかの判断基準は、飯沢氏の「私」によって選ばれた撮影者の凄絶
な人生なのである。それぞれの写真家についての記述から、飯沢氏の「私」
によって写真家の「私」が改変されている感じをうけるのは、こうした理
由によるものでしょう。

 無数の写真によってとりかこまれた生と、そんななかでも私をつきさす
この一葉の写真を理解を深めようとする人たちにとって、この飯沢氏の写
真論はただただ有害なものでしかないでしょう。

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■「虚実皮膜の書評」/キウ
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『取り替え子 チェンジリング』 大江健三郎 講談社 00.12

 映画監督・吾良の投身自殺。吾良の友人であり、義理の弟でもある作家の
古義人。吾朗の妹であり、古義人の妻でもある千樫。この三人を中心に物語
は構成される。

 吾良の死後、古義人は生前に送られてきた吾良の声が入ったテープを、書
庫に備え付けてある兵隊ベッドの上で、ヘッドフォーンをつけながら聴き耽
るようになり、その吾良の言葉に、一時テープを止めて語り返しさえするこ
とが習慣化する。

 そのようにしてはじまるこの小説はひどく陰鬱だ。吾良は写真週刊誌に掲
載された女性スキャンダルを、身を以て否定するために投身自殺に及んだ。
そのような吾良自身の遺書に古義人は説得されない。生前吾良から送られた
旧式のカセットレコーダーとヘッドフォーン(その形が子供の頃に獲った田
亀に似ているというので「田亀」と命名)、それから時々に送られてくる吾
良の話の入ったテープ。そのテープには「・・・そういうことだ、おれは向
こう側に移行する、ドシン、・・・しかし、おれはきみとの交信を断つのじ
ゃない、わざわざ田亀のシステムを準備したんだからね。それでも、きみの
側の時間では、もう遅い。お休み!」と飛び降りの効果音つきで、最後の挨
拶まで録音されていた。

 毎晩遅くに田亀で吾良と「会話」を交わす古義人に、千樫と、二人の子で
あるアカリは脅かされる。そのような状況から脱却するために、ベルリン自
由大学で講義を受け持つ誘いを受けて、田亀を持たずに旅立つ。そのように
して吾良の死と距離を取りながら、過去の交友を遡って、自殺にいたる筋道
を掘り起こしてゆこうとする。

 この陰鬱な小説は、しかし、それにもかかわらず、ここ最近の大江健三郎
の作品にくらべて、言葉・描写の輝きを取り戻している。『治療塔』(岩波
書店)『燃え上がる緑の木』(新潮社)と、断筆にいたる作品は、物語の構
築に細部に渡って様々に意匠を凝らしながらも、言葉・描写の喚起力は、以
前の作品にくらべ、ひどく衰退していた。断筆宣言を撤回して発表された
『宙返り』(講談社)においても『燃え上がる緑の木』の延長、発展という
形は見えながらも、四年間の沈黙はなんだったのか、と考え込んでしまうほ
どに、言葉・描写の喚起力は戻っていなかった。神なき祈り、というテーマ
を深化させたのだろうけれど、その深化に言葉がついていっていない、と往
年の力ある文体を思い起こして悲しかった。

 今回は作者にとって極めて身近な事件を取り上げている。もちろん作品を
そのように事実関係と照らして読むことは、小説を読む態度としてどうか、
と思うが、言葉・描写に力が戻ってきている事実は、そのような条件と切り
離しては考え難いかもしれない。

 「すべての面で自分はガタガタになっている」と吾良の遺書にはあった。
それを古義人はやはり受け入れられない。どのような局面にも、それこそ映
画製作を通してヤクザに襲撃されようとも、ガタガタになるようなタイプで
はない、と古義人は吾良のことを認識している。しかし千樫は子供の頃、兄
・吾良とその友達・古義人が、ガタガタになって戻ってきた夜のことを覚え
ている。

 松山の高校に通う二人。古義人の父は、敗戦直後に決起して銃殺されてい
る。古義人の父の弟子である大黄を中心とした右翼の若者たちが松山に現れ
る。そして、講話条約が発効されて占領時代が終わろうというとき、日本人
は誰一人として占領軍に反抗しなかったという、そのような敗北主義を破る
ために、米軍キャンプに襲撃をかけるという。一方、美しい少年である吾良
を慕いねらう、日本語将校・ピーターがいる。大黄たちは吾良をダシにピー
ターを使って、襲撃のための武器を米軍キャンプから調達しようと考える。
そして大黄らの根拠地である山奥の錬成道場に、二人及びピーターはおもむ
き、汚される。

 具体的にそこで何があったのかは判然としない。ただ、二日間を開けて山
奥の道場から戻った二人は、ガタガタになって、千樫の前に姿を現し、ただ
身体を洗って寝入るばかりだった。その日を境に吾良は決定的に変わった。
「千樫の、才能にあふれて美しく、多くの人から愛された、――それも、子
供でありながら畏敬するように愛されていた――兄が、ある時からどこかえ
たいの知れないところのひそむ、それまでとは違う者になってしまった。」
(P296)

 性的なことが、そこであったのかは、書かれていない。ただ間違いなくあ
った事柄は、人間の悪意にさらされた、邪悪な心に汚された、ということで
はないだろうか。印象的なのはピーターよりも、その錬成道場において、二
人を嘲笑した道場の若者たちだ。料理のために屠った牛の皮を、まだ生暖か
く汚れたままに二人に被せる。そのようにして牛の皮に包まれて身動きのと
れない二人を若者たちはさらに嘲笑する。そして、その山奥の道場から抜け
出し、松山の千樫のもとに戻ってきた二人は、その後の生涯においても、こ
のような悪意と戦い続けなければならなかった。その過程において、ガタガ
タになった吾良は、先にあちら側へ、「外側のあの向こう」(悪意に充ちた
世界)のさらに先へ突き抜けてしまったのだ。

 最終章は千樫の視点から描かれている。その中で、チェンジリング、とい
うヨーロッパの伝承をもとにした絵本に言及している。妹である美しい赤ん
坊を子守していたアイダは、ホルンを吹いている隙に、赤ん坊をゴブリンに
さらわれ、氷の赤ん坊と取り替えられてしまう。怒ったアイダは宙を飛んで
赤ん坊を取り戻しにゆく。千樫は兄・吾良が、あのガタガタになって古義人
と戻ってきた夜以来、「この吾良は本当の吾良ではない」と感じ、その感じ
方を、チェンジリングという話に重ねた。アイダは赤ん坊を取り戻すが、千
樫はアカリを生む際に、「失われた無垢の吾良を取り戻したかった」のだと
思い当たる。アカリは知的障害はあるが、作曲を通じて「完全な美しさの自
分を取り戻した」。

 そのようにして円環する物語は、宗教団体を中心に据えた前二作の表現よ
りも、読み手に強い説得力をもって迫る。沈鬱ながらに希望の光もある。い
や、どのようにしても悪意にまみれて生きていくしかない生の苦しさばかり
が際だっているかもしれない。しかしそのようなものを受け止めて立つ力は
この作品にみなぎっている。

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■「一字千金の記」/グッドスピード
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「用字の統一について」

 誤字・脱字のたぐいならば比較的簡単な話だが、「用字の統一」となると
一筋縄ではいかなくなる。実際、校正でもっとも頭をいためるのはこの問題
なのだ。
 たとえば、澁澤龍彦はこう言っている。
 〈近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、
やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教
育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。「生む」と書
こうが「産む」と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、
両方を使い分けても一向に差支えないのである。〉

 私も基本的にそう思う。つづけて澁澤は例をあげる。
 〈「渇を癒す」と書くと、「渇き」ではないかと指摘されることがある。
これは「カツをいやす」と読むのである。「カワキ」ではないのである。そ
のくらい、おぼえてほしいものだ。〉
 また同様に、紀田順一郎氏も「用字の統一」についてこう述べている。
 〈たとえば「大方」「おおかた」と二通りの記述があり、どちらかに統一
してもらいたいという。しかし、これはその場の呼吸とか、字の続きぐあい
とか、あるいは前述の送りや上げをしないくふうからそうしている場合があ
る。字の続きぐあいというのは、「出張校正で大方本文は片づき」といった
文章の場合、どうみても「出張校正でおおかた本文は片づき」の方が、可読
性の面でもすぐれている。〉
 そして、こう続ける。
 〈どうも近ごろは、機械的な統一を問題にする傾向が強くなっていて、著
者をいらいらさせる。教科書などは統一もやむをえないであろうが、その他
の出版物にまで形式主義を押し通すべきではない。機に応じたヴァリエーシ
ョンがあってこそ、文章は生きてくるのであり、多くの場合平明達意という
ことにもつながっていく。〉
 まさにその通りだろうと思う。書き手がいらいらするくらいである。私も
同感だ。
 とくに校正する側として悩むのは、漢字をひらがなにするかどうか、そし
てそれを統一するかどうかという場合である。なぜなら、それは字として間
違いではないなかである。
 
 たとえば、「例えば」と「たとえば」、「既に」と「すでに」、「一つ」
と「ひとつ」などなど、数え上げたらきりがない。これはまさに可読性と慣
用性から判断するしかない。著者が意識して使っている場合は、著者との相
談で判断するが、そうでない場合はこちらで判断せざるをえないからだ。
 短い原稿ならば統一も押し通せるかもしれないが、たとえば、単行本1冊
とかになるとそうもいかない。
 そこで判断基準となるのは何か。そもそも判断基準などないわけだから恣
意的に作らなくてはならない。そこで重要なのが、やはり文脈を生かした可
読性と慣用性である。そしてこれは読書を通じてしか身につけられないもの
なのだ。その意味でも、校正の難しさは、間違いを正すことより、文章を生
かした用字にあると言えるだろう。
 とにかく、これにはマニュアルもないのだから、日々実践のなかで会得し
ていくしかない。こういう問題に突き当たると、いつも「文は人なり」と思
いながら頭を掻くのである。やれやれ。
(第16回・了)
●活字版VOWのネタを募集しています。本や雑誌などで見つけた面白い
誤植(誤字)を下記のアドレスまでお知らせ下さい。
ryuz@cf6.so-net.ne.jp (グッドスピード)
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■あとがき
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いまどき朝日新聞の「天声人語」を読んでいるというと失笑をかうようで
はずかしいのですが、たまたま読んでしまった昨年12月31日付のそれ
はひさびさに感銘いたしました。「きのうに続く今日を泰然と生き、今日
に続く明日を、悠然と生きていく」。20世紀最後とあってかいつになく気
合の入った「天声人語」でありました。そうそう、帰省した田舎で、90
歳をすでにいくつか過ぎた祖母と、離乳をはじめた1才半の姪がたわむれ
ている様子をみたことも、この言葉に感銘したことに深くかかわっている
のかもしれません。今世紀もどうぞよろしくお願い申し上げます。(グ)
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