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2001.4.5.発行 vol.65 [春眠どころじゃない 号]
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■■ [本]のメルマガ 2001.4.5.発行
■■ vol.65
■■ mailmagazine of books [春眠どころじゃない 号]
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■CONTENTS-----------------------------------------------------------
★トピックス
→出版社スタッフ募集、イベント、近刊情報など。
★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→4月1日のメディアは何を伝えたのか? フォトグラフの哲学・その2
★「虚実皮膜の書評」/キウ
→「純文章」って何? 芥川賞の選評と受賞作を読む。
★「一字千金の記」/グッドスピード
→最近「お詫びと訂正」を見かけなくなりました。
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■トピックス
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■人文書の優良出版社「藤原書店」がスタッフ募集!
ブローデル『地中海』やブルデュー・ライブラリー、雑誌『環』などで名
高い出版社、藤原書店がスタッフを募集しています。書類選考の上、試験
日が通知されます。来たれ、次世代の出版人!
○応募資格
・年齢、性別、学歴不問(2002年春卒業者可)
・知力、体力、気力に自信のある人
・英語、フランス語ほか、外国語堪能者優遇
○職種
・編集/営業
○提出書類(郵送のこと)
・作文「出版と私」2000字
・履歴書(写真貼付)
○しめきり
・2001年4月25日(消印有効)
162-0041東京都新宿区早稲田鶴巻町523 株式会社藤原書店
電話03-5272-0301 http://www.fujiwara-shoten.co.jp
※Eメールでの問い合わせは受付けていません。
■本の生死をめぐる講演会開催
「本」にまつわる講演会・シンポジウムが、青山ブックセンター本店のカ
ルチャーサロン青山で2日連続で行われます。
その1
●誰が「書物」をつくったのか?
―シンポジウム『知恵蔵裁判全記録』(太田出版)を読む
パネラー:
すが秀実氏(文芸批評/『小ブル急進主義批評宣言』)
北田暁大氏(メディア史・社会学/『広告の誕生』)
米田綱路氏(『図書新聞』編集長)
鈴木一誌氏(グラフィックデザイナー・裁判原告)
日時: 2001年4月10日(火)19:00〜21:00(18:30開場)
95年、朝日新聞社による『知恵蔵』本文レイアウト流用に対してデザイナ
ーがフォーマット・デザインの権利を訴えた「知恵蔵裁判」は、日本初の
フォーマット・デザイン裁判として出版界・法律界の注目を集めながら、
98年、控訴審における原告敗訴で終わった。しかし、書物における「編集
著作権の準共有」という原告の主張は、これまで出版社による出版権占有、
著者による著作権占有という二つの既得権によって不可視化されてきた編
集・デザイン・組版・印刷など、書物を連携して生み出す現場それぞれの
固有性を示唆し、DTP時代を迎えた現在、いっそう切実なものとなりつつ
ある。この先駆的裁判の全文書を収録した『知恵蔵裁判全記録』(太田出
版刊)を手がかりとして、現在の書物と出版をめぐる諸問題を徹底討議す
る。
その2
●佐野眞一氏講演会
本の世界の「モンスター」はこいつだ!――『原色怪獣怪人大百科』から
『誰が「本」を殺すのか』まで
日時: 2001年4月11日(水)19:00〜21:00
両日とも、会場: 青山ブックセンター本店 カルチャーサロン青山
お問い合わせ先: 03-5485-5511(10:00〜22:00)
参加方法・注意事項:定員100名様・入場無料。予めご予約ください。
青山ブックセンター http://www.aoyamabc.co.jp/
■廣済堂ライブラリー、4月20日創刊。廣済堂出版から。
現代の思想とメディアをテーマに、下記の4点がまず刊行されます。
●永瀬唯著『腕時計の誕生』――女と戦士たちのサイボーグ・ファッショ
ン史
人間−機械間インターフェースは、どのように発展してきたのか? オフ
ィスで働く女たち、遊撃戦の戦士、冒険家…、19世紀末の「新人類」に
育まれた腕時計の歴史。
●港千尋著『第三の眼』――デジタル時代の想像力
デジタルの海で溺れないために。電子化された全てであると信じきってい
いのだろうか?見ること、知ること、学ぶことの本質を問いただす。
●服部桂著『メディアの預言者』――マクルーハン再発見
インターネットの時代は予言されていた。60年代にメディア理論を展開
し、一大ブームを巻き起こしたマーシャル・マクルーハン。彼の理論で
21世紀のメディア環境を展望する。
●高橋敏夫著『理由なき殺人の物語』――『大菩薩峠』をめぐって
近代の光から排除された「怪物」たち。『大菩薩峠』に代表される「理由
なき殺人」の系譜を辿りながら、モダンとポストモダンを突き抜ける「怪
物」たちの未来を探る。
各巻1000円(税別) B6変型判上製 各巻平均192頁。
廣済堂出版 http://www.kosaido-pub.co.jp/index2.html
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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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第23回 フォトグラフの哲学のために その2
写真の哲学のために
さて前回、何も考えずはじめた「フォトグラフの哲学」、どうすすめる
んでしょうか。勁草書房からでているヴィレム・フルッサーの『写真の哲
学のために』からとってきました。フォトグラフ(光の刻印)という語ほ
ど、現代社会のなかで進行している情報化のプロセスを伝えるものはない
ということで、あえてこの語を使ったのですが。『写真の哲学のために』
の解説に、室井尚氏が「文化の大転換のさなかに」という小論を寄せてい
ます。フルッサーを90年代以降の知的状況の中でいかにひきうけるかを
書きつけた文章です。オートマチックなシステムとしての大学−知識人へ
の激烈な批判とともに、文化における情報の組織化モードの変化のなかで、
「人間」や「主体」や「社会」や「自由」などに関わる基本的な概念の再
構築をめざすべきだといいます。うーむ、何かしたくなる、フルッサーの
この本はそういう本です。
テキストと写真の関係
「歴史の流れのなかでは、これまではテクストが画像を説明したのですが、
今では、写真が記事を図解するのです」(前掲書80ページ)
「もちろん私たちは、写真をじっと見るだけでなく、それが図解する記事
も読みます------そうでなくとも、少なくとも画像の題名は読みます。テ
クストは、その機能を画像に従属させながら、私たちの画像理解を新聞の
プログラムの方向へとコントロールします。したがって、テクストは画像
を説明するのではなく、画像を強化するのです。また、私たちはとっくの
昔にあらゆる説明にうんざりしており、写真のほうを好むのです」
(前掲書82ページ)
以上の引用は写真の需要に関する記述の一節ですが(こうした視点は広
告写真、報道写真を考察したバルトの初期の論考にもある)。自分で経験
した最近の例をひとつあげてみよう。4月1日付の東京新聞「こちら特報
部」に以下のような記事が掲載されている(すいません東京新聞ばかりで。
テレビも見ないので社会との接点はこの新聞と、電車の中吊りだけ)。
見出し大文字は、
○「クローン毛主席 来春にも誕生 日中共同「M復活作戦」」
○「きんさんぎんさんは三姉妹 ブラジルに「どうさん」108才」
○「2000円札 日銀 流通拡大へ最後のカケ 『1900円で売ります』」
少々長いけども、説明します(ほんとうはぜひ手にとって欲しい)。新
聞の見開き2面で、これらの記事は掲載されていて、右には毛沢東の記事、
中央には一番大きく、どうさんの写真。そして左上には「本音のコラム」
で「プカプカ島移民募集!」というジョン・ギャスライト氏の顔写真入の
コラム。その下に日銀の記事、という配置になっている。三つの記事には
それぞれ、写真が配されている。
毛沢東の死体が安置されている写真。「クローンの毛主席が「本物」の
遺体を見たら、どう思うだろうか=北京の毛沢東記念堂で水晶のひつぎに
安置されている毛主席の遺体(ロイター)」と説明が付されている。
幹にはご丁寧にもナタで切れこみがある、熱帯系の木をバックに記念撮
影する半袖すがたのおばあさん=どうさんの写真。キャプションには「元
気だったころのどうさん。1992年8月ころ撮影=ブラジル在住の三男、緒
方三則さん提供」というキャプションがついている。ほか、船とその船を
見守る多くの人々が写されている写真(キャプションには「第1回ブラジ
ル移民を運んだ「笠戸丸」の複製を使って再現されたサントス港への入港
シーン(1988年、ロイター)。どうさんは第二回移民団として1910年、ブ
ラジル入りした」とある。そしてその下にはきんさんとぎんさんが、みん
なに手をふり、あいさつをしている写真。キャプションには「人気だった
成田きんさん(左)と蟹江ぎんさん。「おみゃー、これから一緒だがねー」
と天国にどうさんに話しかけているかも=写真は1996年5月(103歳)のこ
ろ」とある。
日銀の記事には「5%ディスカウントで、在庫の山もはけるはずだが
・・・・・・=昨年7月19日、2000円札の運び出しが始まった日銀本店で」。
エイプリル・フールという日と知っていた。「こちら特報部」というコ
ーナー自体個性的で、興味深い記事をのせるコーナーとしっている。朝、
この記事を読んで、夕方に家人に、「やはりウソよ、ここに冗談って書い
てあるわ」と言われるまで信じていた。記事の一番下の部分には「お断り
今日は4月1日、エイプリル・フール。本日の特報面はすべて冗談です」
とあった。その日は多くの人に会ったのだけども、この話をしなかったの
は信じていなかったからだろうか。いや、普段から新聞で読んだ記事の話
など、周りの人としない。半信半疑? 普段の記事も、偽りの記事も同じ
ような態度で接している自分がそこにいるのだ。
国境の越え方
西川長夫さんの名著『国境の越え方』が増補改訂されて、平凡社ライブ
ラリーから刊行された。この補論部分を読むだけでもじゅうぶん価値のあ
る一冊だった。「私」や「個人」という概念は一見、国民や国家に対立す
るように見えても、実は「国民」や「市民」と一対の、国民国家を支える
概念であって、そのような形での「私」や「自我」や「個人」を拠り所に
してとして国家には対抗できない。こうした考えのもとで、なおも提起さ
れる「私文化」という視点が、近年のグローバリゼーション論、多文化主
義論、アイデンティティの問題を検討しつつさらに深められている。そし
て将来の人間関係や人間の典型として「移民」の可能性を考察している。
戦前から日本ではユダヤ人論が熱心にかわされているけれども、それは
国家なき流浪の民という立場へみずからがなるのではという不安からでは
ないだろうか。でも民族が、国家が消滅するかという不安と、私が生きて
いくことができるかという不安は本来別のものだ。民族や国家という、私
の属性のひとつでしかないもののために、その生を翻弄される現実が厳と
してある。
本書の解説で、上野千鶴子さんが、西川氏の「私文化」論と氏の植民地
生まれという出自、難民として38度線を越えた経験との関係に言及して
いる。西川氏の経験を私は自身の経験として想像、共有できるだろうか。
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■「虚実皮膜の書評」/キウ
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『熊の敷石』 堀江敏幸 講談社 01.2
『ことし読む いち押しガイド 2000』(メタローグ)で清水良典氏が「純
文章」という項目を掲げていくつかの本を紹介していて、まっさきに取り上
げていたのが堀江敏幸の『おぱらばん』(青土社)だった。
『おぱらばん』が三島賞を受賞する際に、これはエッセイなのか小説なの
か、選考委員の間でもめたようで、清水氏は「それなら『純文学』とより
『純文章』と呼ぶほうが明晰だと気づかされた」(P157)そうである。
至極、名言である、と感じ入り興味を引かれつつ、未読だったこの作者が
今度は「熊の敷石」で芥川賞を取った。
芥川賞の選評はいつも面白く、受賞作を読まないことがあっても選評は読
む。今度の場合も、やはり「随筆に毛の生えたような程度の小説」「エスプ
リもどき」といったような評をする選考委員もいて、おかしかった。そのよ
うなジャンルの枠組みにおさまらない作品は「純文章」として、評価したら
いいと思う。
フランスへ出て、原書の梗概と部分訳を作る仕事をしている「私」は、か
つて留学時に知りあったヤンを、ひさしぶりに訪ねる。ヤンは写真をやって
いて、翌日にはアイルランドに発つという。一晩ヤンの部屋に泊まることと
なり、学生の頃のこと、ヤンのユダヤ人としての家族のこと、などを話す。
翌日「私」が目を覚ますと、ヤンはもう出発していて、仕事に使っていいと
言われていたとおり、もう一泊して原書を読み進める。翌日、ヤンの部屋の
大家であるカトリーヌに車で駅まで送ってもらう際に、昼食をごちそうにな
る。
ストーリーらしきものはそれだけ。大事なのは文章であり、細部の描写の
巧みな響き合いにある。
たとえばタイトルでもある「熊の敷石」。まず作品の冒頭は夢ではじまっ
ている。夢の中で「私」は「熊の敷石」の上を歩く。その夢はヤンと一晩話
し込んだあとの目覚め際に見るのだが、それは作品が進行してゆく過程で、
大家のカトリーヌの子供である、ダヴィットの写真に触発されて見た夢であ
ることが暗示される。ダヴィッドは生まれながらの全盲で、写真には熊のぬ
いぐるみを抱いて映っているのだが、その熊の目は糸でばってんに封印され
ている。敷石の方はヤンの住む地方には花崗岩の採石場と加工工場があり、
敷石の修理などもするという。ヤンはそこでときどき働いていて、写真を撮
らしてもらったりもしている。そのような伏線をたどりながら、主人公は、
仕事で読み進める本に導かれるようにして、ラ・フォンテーヌの寓話に行き
着く。
孤独な一頭の熊と一人の老人がへんぴな山奥に暮らしている。やがて退屈
した両者は一緒に暮らしはじめ、うまくやっていた。ある日、老人が昼寝し
ているときに蠅が部屋を飛び回り、熊がそれをしとめようとしている。蠅は
老人の鼻先に泊まり、熊は敷石をひとつ掴むと、それを思い切り投げつけ、
老人の顔ごと割ってしまう。「無知な友人ほど危険なものはない。賢い敵の
ほうが、ずっとましである。」という教訓でその寓話はまとめられている。
「熊の敷石」とはいらぬお節介という意味になる。
この作品の、というよりも、この作者の、人との関わりについての態度表
明のようなものが、ラ・フォンテーヌの寓話に重なる。
私は他人と交わるとき、その人物と「なんとなく」という感覚に基づく
相互の理解が得られるか否かを判断し、呼吸があわなかった場合には、お
そらくは自分にとって本当に必要な人間ではないとして、徐々に遠ざけて
しまうのがつねだった。(P33)
公の悲しみなんてありうるのだろうか、とヤンの言葉を耳に入れながら
私は思っていた。悲しみなんて、ひとりひとりが耐えるほかないものでは
ないのか。本当の意味で公の怒りがないのとおなじで、怒りや悲しみを不
特定多数の同胞と分かち合うなんてある意味で美しい幻想にすぎない。痛
みはまず個にとどまってこそ具体化するものなのだ。(P72)
このような態度を「取り澄ましてばかりもいられない」と評する選考委員
の気持ちも分からないではないが、これは、表層を覆う柔らかく物静かな文
章の陰に隠れた、かなり強固なこの作家の意志でもある。このような「取り
澄まし」をただの「エスプリ」と解しては、この作者の資質を見誤るであろ
う。
単行本には他に「砂売りが通る」「城址にて」二編を収める。どちらも秀
作である。
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■「一字千金の記」/グッドスピード
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「お詫びと訂正」
最近、「お詫びと訂正」という記事を見かけなくなりましたね。ひところ、
新聞でも雑誌でもよく見かけたような記憶があるのだが、以前この欄で取り
上げた書籍における「正誤表」と同様、少なくなっている気がする。
それは、誤りが少なくなったとも言えるのだろうが、誤りの訂正やお詫び
をわざわざその媒体でするという考えが弱くなってきているようにも思う。
たとえ間違いがあっても、読者や間違えられた当事者から強い文句(クレー
ム)がないかぎり、あるいは、「お詫びと訂正」を掲載しろ、と言われない
かぎり、作り手の誠意というか見識でもって「お詫びと訂正」を掲載するこ
とがなくなってきたのではないかと、多少の危機感を感じたりしている。
とはいえ実際は、読者として「お詫びと訂正」に出会ったとき、特に雑誌
や新聞だと、その「誤り」じたいを確認するために、わざわざバックナンバ
ーや該当号の媒体を引っ張り出してくることはほとんどない。そういうこと
をするのは、かなりのものずきかある種のスペシャリストしかいないだろう。
そういうこともあってか、作り手のほうも甘えているのではないかと思う。
なぜそんなことを感じたのかというと、ひさびさに「お詫びと訂正」を見
かけたからである。ほとんど場合、その「お詫びと訂正」には、どういう誤
りだったかを簡単に説明してあるので、該当媒体を探すこともなく、それじ
たいでまずまず楽しめるのだ。
帝都高速度交通営団の広報誌「メトロニュース」(2001年4月号)で見つ
けた。いきなり第1ページの下部欄外にこうある。
「お詫びと訂正 メトロニュース3月号3ページ目、歌舞伎座前の写真説明
で坂東玉三郎とあるのは坂東三津五郎の誤りでした。また2ページ目の写真
説明でトライスラー博士とあるのはトイスラー博士の誤りでした(7ページ
目、地図中の表記も同じ)。お詫びして訂正します。」
いえいえ、とんでもございません。これもまた楽しませてもらいました。
よく地下鉄を利用するのでメトロニュースを手に取ることが多いのだが、
ある意味で本来の記事よりもこのお詫びと訂正が面白く感じてしまったのは
たしかである。
読者だって、その誤りじたいに気づいていたかというとそうとは限らない
し、私自身、該当号でそんな誤りに気づかなかった(というかその部分は読
んでなかった)。だからこの「お詫びと訂正」の小さな記事じたいを、ひと
つの記事として読んでしまう。
そこで読者はどう感じるかということを考えるとちょっと複雑だ。
つまり、誤りに気づかなかった人は、この「お詫びと訂正」を読んで、前
号に誤りがあった事実を知ることになる。その誤りによってある種の信用を
失う。しかし一方、「お詫びと訂正」が掲載されていることで、この媒体の
ある種の誠実さ、見識を感じることができる。しかもこの媒体を作っている
ほほえましい人間像に想いを馳せてしまったりもする。
だが、やはり人名の誤りはキツイ。「お詫びと訂正」は当然のことだろう
が、翻って、誤字脱字以上に誤った考えの主張や報道が新聞を中心に氾濫し
ているなかで、記述の文字的な誤りに対しての「お詫びと訂正」より、「こ
んな誤った主張を載せたり、報道してしまったりしたことへのお詫びと訂正」
のほうがもっと重要だと思う今日このごろであります。要するに、「お詫び
と訂正」をするべき人がそれをしないというのが問題なのですね。
(第19回・了)
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■あとがき
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世の中、しょうもない嘘はたくさんあるが、気の利いた嘘はあまりない。
毎年、4月が近づくと、最高級の嘘を気合を入れて考えるのだけれど、なか
なかうまくいい嘘がつけない。嘘には相手が必要だし、嘘にも人間性が出る
からね。まだまだ修行です。これ本当。(グ)
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