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2001.5.5.発行 vol.68 [暦のうえでは夏 号]
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■■ [本]のメルマガ 2001.5.5.発行
■■ vol.68
■■ mailmagazine of books [暦のうえでは夏 号]
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■CONTENTS-----------------------------------------------------------
★トピックス
→イベント、近刊情報など。
★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→柳田國男の『妖怪談義』を読んで幽玄なものに想いをはせる。
★「虚実皮膜の書評」/キウ
→言葉と身体のズレという主題を描く作家の2作品を読む。
★「一字千金の記」/グッドスピード
→ある映画作品に「何か」ヘンなものが映っていた!映画の校正とは?
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■トピックス
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■野坂昭如氏の『てろてろ』、オンデマンド出版で蘇える。
三島由紀夫に「…これはもうほんとうに、破裂するための集中ですよ。
めちゃくちゃですね」と言わしめた長編が、新潮オンデマンド・ブック
スの1冊として蘇えった。『エロ事師たち』『とむらい師たち』になら
ぶエロ・グロ・テロの三ロ作の一作品。
あとがきの「現代におけるテロリストは、むしろ、もっとも心やさしい
人間といえるのではないか」という一文になんだか心ひかれる。
本体価格3,400円
新潮オンデマンド・ブックス
http://www.webshincho.com/
■佐内正史氏サイン会
何気ない日常のひとこまを、どこか懐かしい色合いで写し撮る写真が特
徴で、いまもっとも注目されている若手写真家のサイン会を開催。新刊
「message」、デビュー作「生きている」の復刊を機に。
日時: 2001年5月12日(土)16:00〜
会場: 青山ブックセンタールミネ2店
(JR新宿駅南口・ルミネ2・4F)
お問い合わせ先: 03-3340-2420(8:00〜23:00)
参加方法・注意事項:
青山ブックセンタールミネ2店にて「message」「生きている」いずれ
かを購入した方にサイン会整理券を配布。
「message」平凡社¥4,500
「生きている」青幻舎¥3,800(復刊)
■甘糟りり子氏トークショー/ゲスト:鹿島茂氏
――「贅沢は敵か」(新潮社)刊行記念
目下、流行評論の第一人者として話題を呼んでいる甘糟りり子氏の新刊
の刊行を機にトークショーを開催。ゲストに鹿島先生がいらっしゃる。
どんな話しになるのか楽しみだ。
日時: 2001年5月15日(火)19:00〜21:00
会場: 青山ブックセンター本店 カルチャーサロン青山(表参道)
お問い合わせ先・予約:03-5485-5511(10:00〜22:00)
参加方法・注意事項:入場無料、定員120名。要予約。
青山ブックセンターURL
http://www.aoyamabc.co.jp/
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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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第25回 信ずることと知ること
某ネット書店に、大月隆寛先生が民俗学の紹介者として連載を開始した
のをみて、私はためいきをついた。なぜこのひとが? 氏の連載を読むに
つけ、やっぱり、と思いましたな。ネットと従来の書物の世界の違い云々
と言いつつ、ネット社会に誹謗・中傷・誤字揚げ足とり・あてこすりの「
くだらねえ」世界をもちこんでいるのは、他ならぬあなたみたいな人なん
です。他人の経歴や新聞・雑誌書評界の内幕を暴露することをフィールド
ワークだとでも思っているのだろうか(註:今日アクセスすると彼の第二
回コラムは、なくなっていた。残念!!)。
彼の書評のなにがダメかというと、その本をほめる/批判するは著者へ
の好感が第一の基準となっているところ。著者がフリーなら間違いなくプ
ラス、大学の先生なんかだとまずマイナスされます。そしてこれは批判す
るときに顕著なのだけれど、その本を伝える努力をせずに、「いまここ」
という語でのみ裁断しようとするところ。いまここ、いまここ、いまここ
の大月節。「いまここ」と、経験=リアリティの重要性をいいつつ、彼の
書評から「いまここ」は消えうせるのであった。
あー、こんなことを書いている自分が嫌になる。これじゃあ大月先生と
変わりゃしない。というわけで、本なら熟読。
小林秀雄の講演おこし「信ずることと知ること」をながめていたら、柳
田國男のことが出てきたので、棚にあった『妖怪談義』(講談社学術文庫)
をとりだして読む。若い頃は読みもせずに「官僚主義者」と毛嫌いしてい
ましたが、読んでも分からなかったでしょう。今回すごく感じ入るところ
がありました。
そのなかに「幻覚の実験」という一文があって、それは柳田の14歳の
ころ実際に体験した話が書かれている(ちなみに実験という言葉が、実際
の体験という意味から、学校の、研究所の実験をまず思いうかべるように
なったのも世相を示すようで面白い)。兄の家の庭で土いじりをしていた
柳田少年は、手鍬のようなもので掘りかえしているうちに不意にきらきら
と光るものが出てきた。よくみるとそれは皆寛永通宝の文字の刻んである
大ぶりの穴あき銭であった。せいぜい7、8個の、当時まだ流通していた
ものだから不思議はないのだが、わざわざ磨いたかのような美しさが妙な
気持ちに、茫然とした気持ちにさせたという。そのときに、今でもあざや
かに覚えている、と柳田はいう。澄み切った青空のもと、日輪のありどこ
ろから15度ほど離れたところに点々に数十の星を見た、と。そのときに
空高いところでヒヨドリが鳴いて通ったことも憶えている、と。
こんな経験をしたのは、その前にいくつかの付随する経験があったから
だろうと、柳田は翻る。他家の先々代のお婆さんをまつった祠をいたずら
であけて、お婆さんが大切にしていた大きなまん丸い石、彼女の魂を思わ
せるような、を見たという経験。土工や建築に伴う儀式のさいに銭が使わ
れる風習があるということは知らず、当時やたらに雑書を読んで、土中か
ら金銀や古銭が出たという江戸時代の事実はしっていて、心を動かされた
ことがあること。そのときでさえ、あまりに神秘なことと思い数日の間だ
まっていて、心の中で星は何かの機会さえあれば見えるものと考えていた。
後日そのことをぽつぽつと家にいた医者の書生に言うと初歩の天文学の本
を持ち出されてそんなことがあるかと笑われ、あやふやになり、東京の学
校に入ってから友人にそのことを語ると、君は詩人だと言われる始末。
話はこれだけだがこうも考える、と柳田は続ける。もし私ぐらいしか天
体の知識をもたないひとばかりが、あの家にいて、真剣な少年の顔つきか
ら、かの地に日中に星が見えたということが語り伝えられぬとは限らない
ではないか、と。信州・千国の源長寺の泣き羅漢の話、松尾の薬師の話を
あげつつ、特に後者は婿と二人で畑打ちをしていた一翁老が、不意に前方
の崖に、お曼荼羅がかかるのを見、「やれ有り難や、松が尾の薬師」と叫
び、婿はそこに何も見なかったのに、たちまちこの崖の端に今もある薬師
が建立したというもので、中心人物の私なき実験談、それも至極端的で簡
単なものが一般の確認を受けた不思議を、こう表現する。「その根底をな
したる社会的条件は、甚だしく、幽玄なものであったと言わなければなら
ない」。
昼間の星の経験を、ただみずからが経験したこととして率直に語る柳田
の感性と態度が、彼の学問のもとにあると、小林秀雄は指摘する。そして
「みずからの懐中にあるものをとりだすことのできないような不自由な教
育」、すなわちこころのない科学的知識に偏重した近代教育を批判してそ
の講演をしめている。
柳田氏が14歳の頃でさえ、自分の経験したことが、それが科学的知識
から異なることを理由に否定されている。以降百数十年否定されつづけて
きた結果、私たちはオバケなんぞいないことをもちろん知っている。でも
今でもそれをおそれるのではなかろうか。かつて存在した「幽玄なもの」
と形容された社会的条件と当時の人々の態度と、現代に生きる私たちのそ
れとはどれだけ異なっていて、あるいはどれだけ同じなのだろうか。そん
な疑問をもって、『妖怪談義』を読み直し、オバケに思いをはせる。
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■「虚実皮膜の書評」/キウ
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『ヴァニーユ』 赤坂真理 新潮社 99.3
『ヴァイブレータ』 赤坂真理 講談社 99.1
赤坂真理の作品は、読みはじめて、まず何の描写からはじまっているのか
よく分からない。あまりに身体に近い視点から小説を書きはじめるからだ。
「ヴァニーユ」は注射針を腕に刺す人を目の隅で捉えた、という狭い視野
の話から、主人公の心の動き出す様が描かれはじめる。そこはどこなのか、
それは誰なのか、どうしてそのような状況下に主人公はいるのか、はじめは
まったく分からない。『ヴァニーユ』収録作の「ヴォイセズ」も聴覚の異常
から描写がはじまる。しばらくして主人公は空港の管制官であることが分か
るが、その立場の者が聴覚異常を起こしていることの重大性は、読み進めて
いくうちに浮き上がってくる。
そのような書き出しが暗示するように、それらの作品は身体の諸々の機能
とその障害に焦点を合わせて進んでゆく。
「ヴァニーユ」では、右顎関節が砕けて、顔面がひどくゆがんでしまった
女性主人公と、それを優しく受け入れようとする男性、片腕がないことでむ
しろ女性主人公の心を捉える隣人の男性、の三人を軸にして話が進む。「ヴ
ォイセズ」は聴覚異常と管制官に必要な用語がとっさに思い出せなくなると
いう異常により、うまく航空機の誘導が出来なくなる主人公と、盲目の男性
との関わり。
身体のある機能の欠損という状況から立ち上がってくるリアリティ。この
ひりひりとしてくるような切実さは、生硬な文章や、無理のある物語展開な
どものともせずに、読み手に迫ってくる。
『ヴァイブレータ』は、主人公を悩ます、コントロール下にない内なる声
からはじまる。しかしやはり最初はなにが書いてあるのかよく分からない。
どのような状況なのかもまったく分からない。ただ、主人公が、内なる声と
格闘している。
ジャーナリストとして様々な人の話を聞くことを仕事としている主人公は
自分の言葉というものを失っている。すべては誰かの語ったことの編集であ
り、その編集がうまければ、まわりからは高く評価してもらえるが、そこに
自分はない、と感じている。「自分の中のものを考える声」(P8)がひどく
なり、不眠がつのる。眠るためにアルコールに依存し、食べたものを消化す
る前に吐くことでよく眠れることを発見すると、食べ吐きを繰り返す。その
頃から「自分の中のものを考える声」が、「全く知らない声」(P15)に変
換され、自分のコントロール下にない声となって、主人公を苦しめる。
見知らぬトラック運転手の若い男性と偶然出会うと、なぜか強く惹かれ、
求める。「それは声たちだったが音ではなく、強い意味の総体として、あた
しの細胞の隅々に伝えられた」(P41)。その衝動は、編集された言葉でも
なく、コントロール下にない声でもないものとして、主人公を動かす。
そこからは、トラックで様々な資材を運搬するフリーのトラッカーとの二
人旅のような展開になるが、その若い男性は、それこそ、「強い意味の総体
として、あたしの細胞の隅々に伝えられた」ような意思にのみ基づいて生き
てきた人間だった。
そのような時間の経過の中で、自分の内に起こっていた「声」のズレと、
その根源にある心の傷を癒してゆき、物語は終わる。
読んでいて、都合がよすぎる、と思わずにいられない強引な物語展開が、
鼻につく。特に『ヴァイブレータ』の中で、トラックの中を「そこは男の胎
内のような場所だと思った」(P52)といった表現に明らかな、母胎回帰思
考が、女性の言葉としてうごめいているこの作品は、男性を主人公にしてし
まえば、ひどく鼻白む展開であるようにさえ思う。
それでも、言葉と身体のズレという、この作家の追う主題は、充分に魅力
的だし、それを描く切迫感や皮膚感覚のすばらしさは、なかなか他に見あた
らない資質だと思う。優しい男、理解してくれる男、という一見便利そうな
項目に逃げない物語作りが出来るようになれば、大きな期待が持てる作家だ
ろう。
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■「一字千金の記」/グッドスピード
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「映画の校正」
連休を利用して映画三昧の日々。映画館にも足を運んだし、ビデオを借り
て観まくった。何気なく映画を観ながら、映画にも「校正」ということがあ
るのだろうか?と思った。あるとしたらどういう作業で、専門の人がいるの
だろうか。映画製作の事情に詳しくないが、出版物でなくてもやはりメディ
アのひとつであるわけで、きっと「校正」はあるのだろう。字幕の校正は言
うまでもなく、フィルム自体の校正も必要だ。
なぜそんなことを思ったかというと、ある映画作品を観ていて「おやっ」
と感じたからだ。あまり詳しい説明をすると、まだ観ていない方に申し訳な
いので、必要最小限の情報で勘弁していただきたい。
問題の作品は、ブラッド・ピットが出演している「ファイト・クラブ」と
いう作品(1999年、アメリカ)。ビデオで観た。それはビデオでなければ確
認できないものだったのだ。
とにかく実際にビデオを観ていただくしかないのだが、映画の前半に2箇
所(私が観た限り)、フィルムのなかに「何か」が映っている。最初はフィ
ルムのゴミか、ビデオの調子が悪いのかと思っていたが、ビデオで巻き戻し
てスローで確かめてみると、あきらかに「何か」が映っていた。その「何か」
はすでに判明しているのだけれど、それを説明してしまうと、ストーリーに
かかわるものなので、お教えできない。映画のなかに別の1コマが挟み込ま
れているのではなく、作品のコマのなかに「何か」が映り込んでいると言っ
たほうが正しい。映画館で観ただけでは、それが何かはわからないだろう。
ビデオだから確認できたのである。
たとえビデオであってもわからない人もいるはずである。それほど一瞬の
ことなのである。よく映画ではシーンが変わるとき、編集のために右上に〇
印のサインを入れたりする。あるいは映写機を変えるとき(フィルム1巻が
終わって、新しい巻にうつるとき)そのサインとして〇印を入れることがあ
る。それと同じ要領で問題の「何か」が映っていたのだ。
映画ができたとき、最初から最後までチェックすることはあると思うが、
その際、フィルムのつなぎが悪かったり、それこそゴミのようなものが映り
込んでいたら修正するだろう。最初、問題のシーンを観ていて、これは「誤
植」的なチェックミスだと思って得意になってしまった。
ところがよくよく調べてみると、それは故意の操作であることがわかった
のである。まるでサブリミナル効果のように。もちろん、映画ファンのあい
だでは周知の事実かもしれないけれど、校正をする眼で観ていてこれはおか
しいと感じてしまったのかもしれない。
正直なところ、問題の箇所を確かめるときは勇気を要した。その映画にま
ったく関係のないものが映っていたらそれこそめちゃくちゃ「怖い」からだ。
ホラー映画よりも怖かったりするし。結果的にはそれはこの映画の作り手の
「お遊び」であったと言える。
でも、こう書きながら、こうバラしてしまうこともいけないことではない
かと思うようになってくる。しかし、言わないとわからないで見過ごす人も
いるだろう。だからとにかく一度通してこの作品を観ていただくしかない。
そして、映画の「校正」という作業について、ご存知の方がいれば、それ
がどういう作業なのかぜひ教えてほしいと思う次第である。それから、他の
作品でもこういうケースがあると思うが、そういう作品にこころあたりのあ
る方も教えてほしい。
いやー怖かった。でも作品自体けっこう面白いです。
(第20回・了)
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■あとがき
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連休の渋滞にはまってしまった、というわけではありませんが、諸事情によ
り、発行が遅れてしまいましたことをお詫びいたします。
映画館に足を運ぶことは少なくなってしまったけれど、たしかにビデオなん
かより迫力あるし、そりゃ映画館で映画を観たほうが面白くない映画でも面
白く観ることができてしまうと思う。でもなかなかたいへん。本を読むこと
と映画館で映画を観ること、どっちが「能動的」なのだろうか?(グ)
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■■ [本]のメルマガ 2001.7.5.発行
■■ vol.74
■■ mailmagazine of books [猛暑襲来号]
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■CONTENTS-----------------------------------------------------------
★トピックス
→イベント・出版情報など。
★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→本・音楽・写真・テレビ…メディアの狩人の「暑い」思考。
★「虚実皮膜の書評」/キウ
→「論争」の季節を読む。純文学の存在意義とは?
★「一字千金の記」/グッドスピード
→セ・ラ・ヴィ!?エレガンスな言葉遣いに出会う。
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■トピックス
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■新しい批判的空間を求めて―『トレイシーズTRACES』の多言語刊行を機に
昨年11月に日本語版が創刊された多言語文化理論誌『トレイシーズTRACES』
は、その後、韓国語版(2001年1月)、英語版(2001年3月)が相次いで刊行
され、まもなく中国語版も現れようとしています。日本での第二号の刊行も
間近に迫ったこの7月に、『トレイシーズTRACES』の編集責任者である酒井
直樹氏(米国、コーネル大学)と、韓国語版の出版責任者である姜來熙氏
(韓国、中央大学)をお招きし、米国や韓国の思想状況と『トレイシーズ』
刊行の意味めぐってシンポジウムを開催いたします。在日本の『トレイシー
ズ』編集同人から、岡真理氏(大阪女子大学)、崎山政毅氏(立命館大学)
が加わります。反動的な文化政治が国境を越えて響きあっているグローバル
な時代にあっては、批判もまた国境を越えた連帯のもとでのみ力を発揮し得
るでしょう。トレイシーズ・プロジェクトと同様、このシンポジウムもまた
そのような新しい批判的な社会性を生み出すことを願って開催されます。
ふるってご参加ください。
●日時:2001年7月21日(土)午後1時半より5時半まで
●場所:一橋大学 佐野書院(国立駅より一橋大学正門を通り過ぎて最初
の路地を右折)
●出席者:姜 來 熙氏(韓国、中央大学)
酒井直樹氏(米国、コーネル大学)
岡 真理氏(大阪女子大学)
崎山政毅氏(立命館大学)
※報告・発言は英語と韓国語で行われます。通訳がつきます。
※午後6時半より、シンポジウム終了後、会場内でレセプションを行います。
●連絡・問い合わせ先:一橋大学・伊豫谷登士翁研究室
電話・ファクス:042−580−8650/Eメール: FZH01225@nifty.ne.jp
岩波書店編集部・小島潔
電話:03−5210−4087/ファクス:03−5210−4153/
Eメール: kojima@iwanami.co.jp
■野崎歓氏トークショウ/ゲスト・金井美恵子氏
――『ジャン・ルノワール越境する映画』をめぐって
『ジャン・ルノワール越境する映画』(青土社)の刊行を記念してのトーク
ショー。
日時:2001年7月6日(金)19:00〜21:00
会場:青山ブックセンター本店 カルチャーサロン青山
問合わせ・申込先:03-5485-5511(10:00〜22:00)
参加方法・注意事項:定員100名、入場料500円。
■西谷修氏講演会――『無為の共同体』(J=L・ナンシー著/以文社)刊行記念
日時:2001年7月16日(月)19:00〜21:00
会場:青山ブックセンター本店 カルチャーサロン青山
問合わせ・申込先:03-5485-5511(10:00〜22:00)
参加方法・注意事項:定員120名様、入場無料。
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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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第27回 スロー・フード、ファースト・フード
スロー・フードということばをよく聞く。イタリアから輸入してきた言
葉ですが、イタリア人がみんなスローなフードであるという誤解も生んで
いるようで面白い。昼飯をゆっくり食べましょうという運動として、イタ
リアでもこんなことがいわれるようになったのに。しかもファーストとい
うのはお客さんが食べるのが早いという意味だけでなく、早いのは店の都
合、つまり合理化を表している。
携帯の通信費を捻出するために、マックの平日半額バーガーを食べてい
るサラリーマンがいるという話を聞いて、おしゃべりするために栄養失調
(ファスト)になっていく現代人の姿を想像し、せめてカレーぐらい食べ
ろよな、とC&Cカレーファンの私は思った。ちょうどその頃、成人病を
おこすサラリーマンの昼食という記事を目にして、ハンバーガーと並んで
カレーがあったのには、笑えなかった。私、だってここ3年、きっちり測
ったように2.0キロ増えているから。誰かに貸し借りするわけでもないのに、
そんなにきっちりしなくてもと思う。カレーがダメなら、毎日ソバだな。
暑いなー。アルジェリアはいったいどんな暑さだろうか。カミュの『異
邦人』を書棚から取り出して読む。殺人の動機を聞かれて、「それは太陽
のせいだ」という男・ムルソー。不条理を描いた小説の代名詞となってい
るこの作品をあらためて読むと、不条理なのはこの主人公とこのセリフで
はない。あるトラブルに巻き込まれた結果、人を殺してしまった男。殺し
てしまったことへの後悔は、被害者にたいしてではなく、昨日まで親しか
ったあの世界には戻れないということへのものだ。今やムルソーをとりま
く世界にあるのは悪意に満ちた関心のみだ。被告は母親を養老院に入れ、
母が死んだときに泣きもせず、死顔も見ない男だ。また死体置き場の小部
屋でタバコを吸い、ミルクコーヒーを飲んでいたし。何事にも激しい感情
をみせることのない冷たい男で、しかも無神論者である。
被告ぬきで、弁護士と検事と裁判官、陪審員でのみ進行する裁判システ
ム。死刑囚に信仰を語らせようとする司祭。殺人の動機を必要としている
のは被告ではなく、社会のほうではなかろうか。彼の死刑が確定していく
この過程こそ、社会の不条理さをあらわしているのではないだろうか。そ
う、ムルソーは自分でも滑稽と分かっていながら、「太陽のせいだ」とい
ったのだ。
暑いね。音楽に関する感度を決定的に欠いている私に、それは今でも変
わりはないのだけれど、聞く楽しみを教えてくれたのは、姉であったり、
友人であったり、恋人だったりした。今年も行けそうにない「島」に思い
をはせよう。一枚は大島保克さんの『北風南風(ニシカジ ハイカジ)』。
大島さんはいま大阪を活動の拠点にしているようですが、昨年は吉祥寺の
ライブハウスで聞けて嬉しかった。「唄しゃ達ぬ夜が更け 踊しゃ達ぬ夜
が更け/太陽ぬ上がるまでぃ舞い遊ぼ イラヨイマーヌ舞い遊ぼ」とうた
う「イラヨイ月夜浜」を皮切りに、「遥かなる光に 遥かなる闇に/たど
りついた人々が/ながれついた島のように/灯りがともり まいもどる」
と歌う「祭」。彼のオリジナルな音楽と沖縄民謡がブレンドされて、沖縄
だけのものではない不思議な「島」の光景が浮かびあがらせ、聴くものを
「島」へと誘う。
もう一枚は寿(コトブキ)の『月の空 水の大地』。ヴォーカルのなび
ぃさんは広島出身、ギター・三線のみやぎさんが沖縄の人と聞いています
が、とにかくこちらは明るい軽快なロックにのせられた歌詞がすごい。た
とえば「青空の下と焼け野原の上で/皆んな捕まって 身ぐるみはがされ
お米も取られて/おばさんは死んで おばあさんまで死んでしまって」
とうたう「がじゅまるの木の下で」。「全てが 終わった 空の下/いの
ち だけが 残った/奪われていた ぼくの ことば/取り戻す日が 来
たんだ/人は 誰でも地球の 上で自由に生きて行ける」と歌う「大歓喜」。
両CDとも、なにより声がよい。色恋をうたう音楽が多くてウンザリして
いる方にはぜひともおすすめしたい。
ここが「メディア・ジャーナル」ということを忘れてはいません。そも
そもこの題名は田中長徳さんのカメラ・ジャーナルと東京新聞のメディア
・ウォッチングをもじってつけたんでしたね。こんなに続けるとは、思い
もせずに。
チョートクさんの新刊『チョートク@ワーク』(毎日コミュニケーショ
ン)はよい写真集です。氏の写真をパノラミックに集成しつつ、しかもカ
メラの紹介という構成をとっている。写真家が撮るのか、写真機が撮るの
かという、日本では木村伊兵衛と土門拳に始まる論議を止揚させようとす
る企み、試みなのか。
いくつかの写真を恣意的にとりあげてみよう。かつての恋人と、そして
彼女と住んでいた家の写真、飼いネコの写真なんかを見ていると、なんか
泣けてくる。それらの写真に私自身の経験を投影してしまうからだろう。
大丈夫、私は今、とてもシアワセだから。数葉のセルフ・ポートレート、
これがまたいい。その表情は、このカメラが正常に作動して撮れるかどう
かという期待と不安の表情にも見えるし、氏自身の将来への期待と不安の
表情にも見える。単に無表情なだけかもしれない。
また学生運動華やかなころの写真で、秋田明大氏ともう一人の性別不明
の人間を撮ったものがある。秋田氏をどこにでもいるフツーの人にしよう
とする写真家の視線の暴力にたいして、となりの彼女あるいは彼は抵抗す
るように腕組みしているように見える。この彼女あるいは彼の顔が、この
暴力の嵐の後、小劇団によくいる顔になると思うのは、映像に予兆を見よ
うとする読者の悪い性向だ。
昨年のシドニーオリンピックのさい、やはり巨人戦の視聴率は低迷した。
そのときにスポンサーである、ビール会社の広報の人間は、こういったも
のだ。「ビールの愛飲者と野球の視聴者の相関性はかなり高いので、スポ
ンサーを降りることは考えていません」。もはや番組とその視聴率さえど
うでもいいのかもしれない。テレビがつけられていれば。新聞も同じだ。
配達されてさえいればいいのである。読者、視聴者という「信憑性」はそ
れで保持されるのだろう。キリンカップ・日本対パラグアイ戦を観戦しな
がらそんなことを思う。ビールを飲みながら。太るだろうな。
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■「虚実皮膜の書評」/キウ
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『ドン・キホーテの「論争」』 笙野頼子 講談社 99.11
純文学は売れない、よく分からない、そんな雰囲気が、確かにあの頃あっ
た。私がはじめてそのような文章に触れたのは、朝日新聞1994年10月5日夕
刊で、芥川賞を受賞した笙野頼子、室井光広の作品に対しての高村薫の「ほ
とんど記号のようで、小説の進化とはこういうものかと驚きました」という
発言を枕にして、最近の純文学の人間不在みたいなことが書かれていた。
(『ドン・キホーテの「論争」』P314-316に資料として収録)。
その記事を読んで私は笙野頼子の作品に手を伸ばし損ねてきた。人間不在
であり、その小説からは社会・個人が消失しており、記号化・断片化が進み
難解である、という記事を前にして敬遠してしまうのも道理であろう。(こ
こ数ヶ月で私がようやく読み込んだ笙野頼子のいくつかの作品には、人間は
もちろん存在し、社会や個人も消失しておらず、記号化も作品としての必然
性の範疇にあると感じたが)。
売れない、ということは書店に勤めていて知っていた。芥川賞を取ったか
らといって、渡辺淳一や浅田次郎のように売れるなんてことは、はじめから
想像していない。純文学の存在意義とは、そういうこととは関係がないのだ
と考えていた。
笙野頼子が「論争」をはじめたのは、この難解でよく分からないというこ
とと売れないということを結びつけ純文学のメッキがはがれているといった
論調の、読売新聞社1998年4月16日夕刊U記者の文芸ノートが契機になる。
まず文藝春秋に掲載された座談会、浅田次郎・林真理子・出久根達郎の三氏
が最近の芥川賞作品を「付いていけない」「文体もまったくない」「物語が
ない」と批判したことを紹介し、現代文学は「公衆の関心、了承から遊離」
し「文壇は何の実際的活動もしていない特殊法人」という福田和也の言葉を
引用し、そして「本が売れない」、渡辺淳一の「直木賞、芥川賞と分けず、
一本にした方がいい」という発言につなげている。
(『ドン・キホーテの「論争」』P310-312に資料として収録)。
公器性の高い読売新聞の文芸時評の役割を果たす文芸ノートにおいて、純
文学の存在意義を、難解で売れないから否定する、といった安易な文章が展
開されたことに、笙野頼子は憤慨し「論争」を開始する。
論争に括弧がついているのは著者自身による。様々なメディアで「論争」
を仕掛けたにもかかわらず、相手が沈黙し、「論争」は不発、「不戦勝」に
終わったからだ。論争にならなかったということだろう。それらの経緯を纏
めたものがこの本である。
なぜ、論争にならなかったのだろう。笙野頼子は相手側の論争能力の欠如
を指摘していたが、それはおそらく本文中にも頻発する「二項対立」から笙
野氏の発言が離れているためであろう。純文学叩きの言論は基本的に「二項
対立」だ。「大衆文学対純文学」「売れる文学対売れない文学」「物語のあ
る文学対物語の希薄な文学」「社会性のある文学対社会性の希薄な文学」等
等、だから純文学は駄目だ、という形がある。しかし笙野頼子はその純文学
叩きのもう一方の項には立たない。純文学擁護が一方の批判される項目には
直結しない。なぜなら「大衆文学」「売れる文学」を否定しないからだ。そ
のような対立構造を仕立て上げる輩はおかしい、信用できない、と言ってい
るだけなのだ。
だから逆に、この本から著者の「純文学の存在意義」についての見解は、
はっきりとはうかがえない。そこが歯がゆいと言えば歯がゆい。
共同体の中に流通しているコードというものがある。おそらく「売れる文
学」はこのコードに沿って制作される。それはその共同体のなかで生きる人
間にとって受け入れやすいものとなるはずだ。ところが、このコードに違和
感を覚えて生きている人間が、少数派であっても存在する。「純文学」はお
そらく、そのような違和感を強く抱いている人間によって制作されるのでは
ないだろうか。そしてそれを受け入れる人間も、おそらくそのような違和感
を社会に対して抱きつつ生きている。少数派であるから当然「売れない」。
社会に流通するコードに沿って生きている人間には「難解」と映る。
だからといって、そのような少数派の文学は存在しなくていい、という発
想は危険だ。本書中に、大塚英治が文芸誌の読者は三百人と根拠薄弱な数字
を提示していることが紹介されているが(P284)、仮に三百人だからといっ
て、抹殺されていい、という発想があってはならない。そんな数字は存在意
義を否定し去る根拠にはならない。
では、保護されるべきなのか。そのことが問題となるのであろう。純文学
は採算が合わなくとも守られるべき世界であるのか。私の能力にはあまる問
題であるけれど、守られるべきなのだと思う。少なくとも私は、社会に違和
を抱く少数の人間が作品を発表する機会を完全に奪われている国に、生きた
いとは思わない。
笙野頼子が『ドン・キホーテの「論争」』で守ろうとしたのは、そのよう
な「場」である。「私にとって純文学とは何か、それは----極私的言語の、
戦闘的保持だ」(P309)。そう、これはもう文学作品である。(さらに、こ
の「論争」を題材にした作品集『てんたまおや知らズどぺるげんげる』(講
談社)もあり、こちらもお勧め)。
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■「一字千金の記」/グッドスピード
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「人生のエレガンス」
閉塞感ただよう世の中にあって、「エレガンス」という言葉ほど自分から
遠い存在のものはない。だからこそその語感に憧れるとも言える。
「あなたの人生のエレガンスは何ですか?」という心の空洞に響く文言を
帯に巻いた本の名は、『幸福論 フランス式人生の楽しみ方』(平凡社新書)。
『ゴングールの日記』の訳者として知られるフランス文学者・斎藤一郎氏の
手になるエスプリ集だ。長短織り交ぜ、26のエッセイが収められている。著
者自身の幸福が感じられる文章で、読んでいて暗くならない。「幸福論」な
ど読む者はだいたいが幸福じゃない。(と思う)。だから今出版されるのだ
ろうが、「幸福論」を読んで元気になるような本は限りなくすくない。(と
思う)。人の幸福ほど「元気」を萎えさせるものはないからだ。そんなこと
なども本書には書いてある。じゃーなぜこの本は読んで暗くならないのか。
それは、「幸福になるのはたいへんだ、やれやれ」というのがコンセプトだ
から。つまり、そんな発想はそれこそ「幸福」じゃないと出てこないのであ
る。そこがいいのだ。たぶん、それが「エレガンス」ってやつだろう。
(「エレガンス、エレガンス」とたくさんつぶやくと、つくづくいい言葉だ
と思ってしまうのでざんす)
そこで「エレガンス」な言葉遣いに出会った。間違いだとは指摘できない
が、なんとも奇妙な言葉遣い。本書の26ページ。
「この当時(1993年7月、筆者注)フランスは失業問題、エイズ問題、宗教
的過激派のテロ、ボスニアなど世界各地の内戦・戦争などが重なり、ようや
くにしてというより、今さらのように逼塞感をおぼえ、ぴやぴやとした不安
のよぎる生活意識を持ち始めていた。……」
「ぴやぴやとした不安」という言葉。皆さん、「ぴやぴや」って言葉、遣
います? 一瞬、これは誤植かと思ったけれどさにあらず。これは日本語の
エレガンスってものでしょう。身近な辞書には載っていないけれど、「ぴや
ぴや」としか表現できない「不安」さが伝わってくるではありませんか。
お金がなくて貧乏なのは「不幸」とは言えないけれど、言葉遣いが貧しい
のは、不幸かもしれません。そんなことを思わせる幸福な一冊です。
さてさて本題。あなたの人生のエレガンスは何ですか?
私の考える「エレガンス」とは……、夜見る夢、見つめ合う沈黙。誰も聞
いちゃいないって!
ところで「やれやれ」という言葉もなかなかにエレガンスだと思うんだけ
どね。
(第22回・了)
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■あとがき
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猛暑の折、1990年代半ばまでクーラーの無い生活をしていたことなど、想像
できなくなっています。それは暑さのせいなのか、クーラーのせいなのか判
然としませんが、いまふと思ったのは、クーラーの普及率と本の売り上げの
相関関係。でもそんなことを言い出したらきりがない。ビールの消費量と本
の売り上げ、シャンプーの消費量と本の売り上げ、メロンパンの消費量と…
…。やれやれ。皆さん、時節柄体調にはご留意を。(グ)
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