2001.7.5.発行 vol.74  [猛暑襲来 号]

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■■  [本]のメルマガ                              2001.7.5.発行
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■CONTENTS----------------------------------------------------------- 
★トピックス
→イベント・出版情報など。

★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→本・音楽・写真・テレビ…メディアの狩人の「暑い」思考。

★「虚実皮膜の書評」/キウ
→「論争」の季節を読む。純文学の存在意義とは?

★「一字千金の記」/グッドスピード
→セ・ラ・ヴィ!?エレガンスな言葉遣いに出会う。

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■トピックス
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■新しい批判的空間を求めて―『トレイシーズTRACES』の多言語刊行を機に

 昨年11月に日本語版が創刊された多言語文化理論誌『トレイシーズTRACES』
は、その後、韓国語版(2001年1月)、英語版(2001年3月)が相次いで刊行
され、まもなく中国語版も現れようとしています。日本での第二号の刊行も
間近に迫ったこの7月に、『トレイシーズTRACES』の編集責任者である酒井
直樹氏(米国、コーネル大学)と、韓国語版の出版責任者である姜來熙氏
(韓国、中央大学)をお招きし、米国や韓国の思想状況と『トレイシーズ』
刊行の意味めぐってシンポジウムを開催いたします。在日本の『トレイシー
ズ』編集同人から、岡真理氏(大阪女子大学)、崎山政毅氏(立命館大学)
が加わります。反動的な文化政治が国境を越えて響きあっているグローバル
な時代にあっては、批判もまた国境を越えた連帯のもとでのみ力を発揮し得
るでしょう。トレイシーズ・プロジェクトと同様、このシンポジウムもまた
そのような新しい批判的な社会性を生み出すことを願って開催されます。
ふるってご参加ください。

●日時:2001年7月21日(土)午後1時半より5時半まで
●場所:一橋大学 佐野書院(国立駅より一橋大学正門を通り過ぎて最初
         の路地を右折)
●出席者:姜 來 熙氏(韓国、中央大学)
     酒井直樹氏(米国、コーネル大学)
     岡 真理氏(大阪女子大学)
     崎山政毅氏(立命館大学)
※報告・発言は英語と韓国語で行われます。通訳がつきます。
※午後6時半より、シンポジウム終了後、会場内でレセプションを行います。
●連絡・問い合わせ先:一橋大学・伊豫谷登士翁研究室
 電話・ファクス:042−580−8650/Eメール: FZH01225@nifty.ne.jp 
 岩波書店編集部・小島潔
 電話:03−5210−4087/ファクス:03−5210−4153/
 Eメール: kojima@iwanami.co.jp 

■野崎歓氏トークショウ/ゲスト・金井美恵子氏
――『ジャン・ルノワール越境する映画』をめぐって
『ジャン・ルノワール越境する映画』(青土社)の刊行を記念してのトーク
ショー。
日時:2001年7月6日(金)19:00〜21:00
会場:青山ブックセンター本店 カルチャーサロン青山
問合わせ・申込先:03-5485-5511(10:00〜22:00)
参加方法・注意事項:定員100名、入場料500円。

■西谷修氏講演会――『無為の共同体』(J=L・ナンシー著/以文社)刊行記念
日時:2001年7月16日(月)19:00〜21:00
会場:青山ブックセンター本店 カルチャーサロン青山
問合わせ・申込先:03-5485-5511(10:00〜22:00)
参加方法・注意事項:定員120名様、入場無料。

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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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 第27回 スロー・フード、ファースト・フード

 スロー・フードということばをよく聞く。イタリアから輸入してきた言
葉ですが、イタリア人がみんなスローなフードであるという誤解も生んで
いるようで面白い。昼飯をゆっくり食べましょうという運動として、イタ
リアでもこんなことがいわれるようになったのに。しかもファーストとい
うのはお客さんが食べるのが早いという意味だけでなく、早いのは店の都
合、つまり合理化を表している。
 携帯の通信費を捻出するために、マックの平日半額バーガーを食べてい
るサラリーマンがいるという話を聞いて、おしゃべりするために栄養失調
(ファスト)になっていく現代人の姿を想像し、せめてカレーぐらい食べ
ろよな、とC&Cカレーファンの私は思った。ちょうどその頃、成人病を
おこすサラリーマンの昼食という記事を目にして、ハンバーガーと並んで
カレーがあったのには、笑えなかった。私、だってここ3年、きっちり測
ったように2.0キロ増えているから。誰かに貸し借りするわけでもないのに、
そんなにきっちりしなくてもと思う。カレーがダメなら、毎日ソバだな。

 暑いなー。アルジェリアはいったいどんな暑さだろうか。カミュの『異
邦人』を書棚から取り出して読む。殺人の動機を聞かれて、「それは太陽
のせいだ」という男・ムルソー。不条理を描いた小説の代名詞となってい
るこの作品をあらためて読むと、不条理なのはこの主人公とこのセリフで
はない。あるトラブルに巻き込まれた結果、人を殺してしまった男。殺し
てしまったことへの後悔は、被害者にたいしてではなく、昨日まで親しか
ったあの世界には戻れないということへのものだ。今やムルソーをとりま
く世界にあるのは悪意に満ちた関心のみだ。被告は母親を養老院に入れ、
母が死んだときに泣きもせず、死顔も見ない男だ。また死体置き場の小部
屋でタバコを吸い、ミルクコーヒーを飲んでいたし。何事にも激しい感情
をみせることのない冷たい男で、しかも無神論者である。
 被告ぬきで、弁護士と検事と裁判官、陪審員でのみ進行する裁判システ
ム。死刑囚に信仰を語らせようとする司祭。殺人の動機を必要としている
のは被告ではなく、社会のほうではなかろうか。彼の死刑が確定していく
この過程こそ、社会の不条理さをあらわしているのではないだろうか。そ
う、ムルソーは自分でも滑稽と分かっていながら、「太陽のせいだ」とい
ったのだ。

 暑いね。音楽に関する感度を決定的に欠いている私に、それは今でも変
わりはないのだけれど、聞く楽しみを教えてくれたのは、姉であったり、
友人であったり、恋人だったりした。今年も行けそうにない「島」に思い
をはせよう。一枚は大島保克さんの『北風南風(ニシカジ ハイカジ)』。
大島さんはいま大阪を活動の拠点にしているようですが、昨年は吉祥寺の
ライブハウスで聞けて嬉しかった。「唄しゃ達ぬ夜が更け 踊しゃ達ぬ夜
が更け/太陽ぬ上がるまでぃ舞い遊ぼ イラヨイマーヌ舞い遊ぼ」とうた
う「イラヨイ月夜浜」を皮切りに、「遥かなる光に 遥かなる闇に/たど
りついた人々が/ながれついた島のように/灯りがともり まいもどる」
と歌う「祭」。彼のオリジナルな音楽と沖縄民謡がブレンドされて、沖縄
だけのものではない不思議な「島」の光景が浮かびあがらせ、聴くものを
「島」へと誘う。
 もう一枚は寿(コトブキ)の『月の空 水の大地』。ヴォーカルのなび
ぃさんは広島出身、ギター・三線のみやぎさんが沖縄の人と聞いています
が、とにかくこちらは明るい軽快なロックにのせられた歌詞がすごい。た
とえば「青空の下と焼け野原の上で/皆んな捕まって 身ぐるみはがされ
 お米も取られて/おばさんは死んで おばあさんまで死んでしまって」
とうたう「がじゅまるの木の下で」。「全てが 終わった 空の下/いの
ち だけが 残った/奪われていた ぼくの ことば/取り戻す日が 来
たんだ/人は 誰でも地球の 上で自由に生きて行ける」と歌う「大歓喜」。
両CDとも、なにより声がよい。色恋をうたう音楽が多くてウンザリして
いる方にはぜひともおすすめしたい。

 ここが「メディア・ジャーナル」ということを忘れてはいません。そも
そもこの題名は田中長徳さんのカメラ・ジャーナルと東京新聞のメディア
・ウォッチングをもじってつけたんでしたね。こんなに続けるとは、思い
もせずに。
 チョートクさんの新刊『チョートク@ワーク』(毎日コミュニケーショ
ン)はよい写真集です。氏の写真をパノラミックに集成しつつ、しかもカ
メラの紹介という構成をとっている。写真家が撮るのか、写真機が撮るの
かという、日本では木村伊兵衛と土門拳に始まる論議を止揚させようとす
る企み、試みなのか。
 いくつかの写真を恣意的にとりあげてみよう。かつての恋人と、そして
彼女と住んでいた家の写真、飼いネコの写真なんかを見ていると、なんか
泣けてくる。それらの写真に私自身の経験を投影してしまうからだろう。
大丈夫、私は今、とてもシアワセだから。数葉のセルフ・ポートレート、
これがまたいい。その表情は、このカメラが正常に作動して撮れるかどう
かという期待と不安の表情にも見えるし、氏自身の将来への期待と不安の
表情にも見える。単に無表情なだけかもしれない。
 また学生運動華やかなころの写真で、秋田明大氏ともう一人の性別不明
の人間を撮ったものがある。秋田氏をどこにでもいるフツーの人にしよう
とする写真家の視線の暴力にたいして、となりの彼女あるいは彼は抵抗す
るように腕組みしているように見える。この彼女あるいは彼の顔が、この
暴力の嵐の後、小劇団によくいる顔になると思うのは、映像に予兆を見よ
うとする読者の悪い性向だ。
 
 昨年のシドニーオリンピックのさい、やはり巨人戦の視聴率は低迷した。
そのときにスポンサーである、ビール会社の広報の人間は、こういったも
のだ。「ビールの愛飲者と野球の視聴者の相関性はかなり高いので、スポ
ンサーを降りることは考えていません」。もはや番組とその視聴率さえど
うでもいいのかもしれない。テレビがつけられていれば。新聞も同じだ。
配達されてさえいればいいのである。読者、視聴者という「信憑性」はそ
れで保持されるのだろう。キリンカップ・日本対パラグアイ戦を観戦しな
がらそんなことを思う。ビールを飲みながら。太るだろうな。

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■「虚実皮膜の書評」/キウ
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 『ドン・キホーテの「論争」』 笙野頼子 講談社 99.11

 純文学は売れない、よく分からない、そんな雰囲気が、確かにあの頃あっ
た。私がはじめてそのような文章に触れたのは、朝日新聞1994年10月5日夕
刊で、芥川賞を受賞した笙野頼子、室井光広の作品に対しての高村薫の「ほ
とんど記号のようで、小説の進化とはこういうものかと驚きました」という
発言を枕にして、最近の純文学の人間不在みたいなことが書かれていた。
(『ドン・キホーテの「論争」』P314-316に資料として収録)。

 その記事を読んで私は笙野頼子の作品に手を伸ばし損ねてきた。人間不在
であり、その小説からは社会・個人が消失しており、記号化・断片化が進み
難解である、という記事を前にして敬遠してしまうのも道理であろう。(こ
こ数ヶ月で私がようやく読み込んだ笙野頼子のいくつかの作品には、人間は
もちろん存在し、社会や個人も消失しておらず、記号化も作品としての必然
性の範疇にあると感じたが)。

 売れない、ということは書店に勤めていて知っていた。芥川賞を取ったか
らといって、渡辺淳一や浅田次郎のように売れるなんてことは、はじめから
想像していない。純文学の存在意義とは、そういうこととは関係がないのだ
と考えていた。

 笙野頼子が「論争」をはじめたのは、この難解でよく分からないというこ
とと売れないということを結びつけ純文学のメッキがはがれているといった
論調の、読売新聞社1998年4月16日夕刊U記者の文芸ノートが契機になる。
まず文藝春秋に掲載された座談会、浅田次郎・林真理子・出久根達郎の三氏
が最近の芥川賞作品を「付いていけない」「文体もまったくない」「物語が
ない」と批判したことを紹介し、現代文学は「公衆の関心、了承から遊離」
し「文壇は何の実際的活動もしていない特殊法人」という福田和也の言葉を
引用し、そして「本が売れない」、渡辺淳一の「直木賞、芥川賞と分けず、
一本にした方がいい」という発言につなげている。
(『ドン・キホーテの「論争」』P310-312に資料として収録)。

 公器性の高い読売新聞の文芸時評の役割を果たす文芸ノートにおいて、純
文学の存在意義を、難解で売れないから否定する、といった安易な文章が展
開されたことに、笙野頼子は憤慨し「論争」を開始する。

 論争に括弧がついているのは著者自身による。様々なメディアで「論争」
を仕掛けたにもかかわらず、相手が沈黙し、「論争」は不発、「不戦勝」に
終わったからだ。論争にならなかったということだろう。それらの経緯を纏
めたものがこの本である。

 なぜ、論争にならなかったのだろう。笙野頼子は相手側の論争能力の欠如
を指摘していたが、それはおそらく本文中にも頻発する「二項対立」から笙
野氏の発言が離れているためであろう。純文学叩きの言論は基本的に「二項
対立」だ。「大衆文学対純文学」「売れる文学対売れない文学」「物語のあ
る文学対物語の希薄な文学」「社会性のある文学対社会性の希薄な文学」等
等、だから純文学は駄目だ、という形がある。しかし笙野頼子はその純文学
叩きのもう一方の項には立たない。純文学擁護が一方の批判される項目には
直結しない。なぜなら「大衆文学」「売れる文学」を否定しないからだ。そ
のような対立構造を仕立て上げる輩はおかしい、信用できない、と言ってい
るだけなのだ。

 だから逆に、この本から著者の「純文学の存在意義」についての見解は、
はっきりとはうかがえない。そこが歯がゆいと言えば歯がゆい。

 共同体の中に流通しているコードというものがある。おそらく「売れる文
学」はこのコードに沿って制作される。それはその共同体のなかで生きる人
間にとって受け入れやすいものとなるはずだ。ところが、このコードに違和
感を覚えて生きている人間が、少数派であっても存在する。「純文学」はお
そらく、そのような違和感を強く抱いている人間によって制作されるのでは
ないだろうか。そしてそれを受け入れる人間も、おそらくそのような違和感
を社会に対して抱きつつ生きている。少数派であるから当然「売れない」。
社会に流通するコードに沿って生きている人間には「難解」と映る。

 だからといって、そのような少数派の文学は存在しなくていい、という発
想は危険だ。本書中に、大塚英治が文芸誌の読者は三百人と根拠薄弱な数字
を提示していることが紹介されているが(P284)、仮に三百人だからといっ
て、抹殺されていい、という発想があってはならない。そんな数字は存在意
義を否定し去る根拠にはならない。

 では、保護されるべきなのか。そのことが問題となるのであろう。純文学
は採算が合わなくとも守られるべき世界であるのか。私の能力にはあまる問
題であるけれど、守られるべきなのだと思う。少なくとも私は、社会に違和
を抱く少数の人間が作品を発表する機会を完全に奪われている国に、生きた
いとは思わない。

 笙野頼子が『ドン・キホーテの「論争」』で守ろうとしたのは、そのよう
な「場」である。「私にとって純文学とは何か、それは----極私的言語の、
戦闘的保持だ」(P309)。そう、これはもう文学作品である。(さらに、こ
の「論争」を題材にした作品集『てんたまおや知らズどぺるげんげる』(講
談社)もあり、こちらもお勧め)。

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■「一字千金の記」/グッドスピード
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 「人生のエレガンス」

 閉塞感ただよう世の中にあって、「エレガンス」という言葉ほど自分から
遠い存在のものはない。だからこそその語感に憧れるとも言える。
 「あなたの人生のエレガンスは何ですか?」という心の空洞に響く文言を
帯に巻いた本の名は、『幸福論 フランス式人生の楽しみ方』(平凡社新書)。
『ゴングールの日記』の訳者として知られるフランス文学者・斎藤一郎氏の
手になるエスプリ集だ。長短織り交ぜ、26のエッセイが収められている。著
者自身の幸福が感じられる文章で、読んでいて暗くならない。「幸福論」な
ど読む者はだいたいが幸福じゃない。(と思う)。だから今出版されるのだ
ろうが、「幸福論」を読んで元気になるような本は限りなくすくない。(と
思う)。人の幸福ほど「元気」を萎えさせるものはないからだ。そんなこと
なども本書には書いてある。じゃーなぜこの本は読んで暗くならないのか。
それは、「幸福になるのはたいへんだ、やれやれ」というのがコンセプトだ
から。つまり、そんな発想はそれこそ「幸福」じゃないと出てこないのであ
る。そこがいいのだ。たぶん、それが「エレガンス」ってやつだろう。
(「エレガンス、エレガンス」とたくさんつぶやくと、つくづくいい言葉だ
と思ってしまうのでざんす)

 そこで「エレガンス」な言葉遣いに出会った。間違いだとは指摘できない
が、なんとも奇妙な言葉遣い。本書の26ページ。
 「この当時(1993年7月、筆者注)フランスは失業問題、エイズ問題、宗教
的過激派のテロ、ボスニアなど世界各地の内戦・戦争などが重なり、ようや
くにしてというより、今さらのように逼塞感をおぼえ、ぴやぴやとした不安
のよぎる生活意識を持ち始めていた。……」
 「ぴやぴやとした不安」という言葉。皆さん、「ぴやぴや」って言葉、遣
います? 一瞬、これは誤植かと思ったけれどさにあらず。これは日本語の
エレガンスってものでしょう。身近な辞書には載っていないけれど、「ぴや
ぴや」としか表現できない「不安」さが伝わってくるではありませんか。

 お金がなくて貧乏なのは「不幸」とは言えないけれど、言葉遣いが貧しい
のは、不幸かもしれません。そんなことを思わせる幸福な一冊です。
 さてさて本題。あなたの人生のエレガンスは何ですか?
 私の考える「エレガンス」とは……、夜見る夢、見つめ合う沈黙。誰も聞
いちゃいないって!
 ところで「やれやれ」という言葉もなかなかにエレガンスだと思うんだけ
どね。
(第22回・了)

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■あとがき
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猛暑の折、1990年代半ばまでクーラーの無い生活をしていたことなど、想像
できなくなっています。それは暑さのせいなのか、クーラーのせいなのか判
然としませんが、いまふと思ったのは、クーラーの普及率と本の売り上げの
相関関係。でもそんなことを言い出したらきりがない。ビールの消費量と本
の売り上げ、シャンプーの消費量と本の売り上げ、メロンパンの消費量と…
…。やれやれ。皆さん、時節柄体調にはご留意を。(グ)
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