2001.10.5.発行 vol.82 [人類の秋? 号]

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■■  [本]のメルマガ                              2001.10.5.発行
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■■       mailmagazine of books           [人類の秋? 号]
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■CONTENTS----------------------------------------------------------- 
★トピックス
→本についての展覧会情報など。

★「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
→私は忘れない。そして語ろう。いま立ち止って。

★「虚実皮膜の書評」/キウ
→これはいいぞ。話題の文芸ベストセラーを読む。

★「一字千金の記」/グッドスピード
→そもそも誤字・誤植を正す「校正」とは何だろうか?

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■トピックス
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■展覧会「書物が伝える日本の美――書写と印刷文化」開催中

日本大学総合学術情報センター所蔵貴重書展として展覧会と講演を開催。
展示は、重要文化財・重要美術品を含む貴重書120余点。
会期:10月8日(月/休日)まで、10:00〜16:30。
講演:粕谷宏紀(日本大学教授)10月6日(土)14:00〜15:00
   有吉保(日本大学名誉教授)10月7日(日)14:00〜15:00
会場:日本大学会館(JR・地下鉄 市ヶ谷駅下車 徒歩2分)
入場無料。くわしくは下記のサイト。
http://www.nihon-u.ac.jp/pamph.htm

■うらわ美術館展覧会「本という美術―大正期の装幀から現代のオブジェまで」

「本をめぐるアート」をテーマに、同館のコレクションを基軸に約200点
から構成。日本の美術家たちによる「本の作品」を、恩地孝四郎とその周辺
から現代に至るまで展覧し、美術家たちが生み出した意外で多様な「本のか
たち」を紹介。魅力あふれる装幀デザイン、手作りの限定部数の本、文学者
との共同作品である詩画集、 読むことのできないオブジェの本等から、本
でしか表現しえない魅力や、本自体 が喚起させるイメージ・意味を探る。

期間:10月6日(土)〜12月16日(日)
開館時間:午前10時〜午後8時(入場は7時30分まで)
会場:埼玉県うらわ美術館
休館日:月曜日(但し10月8日は開館、10月9日閉館) 
観覧料:一般630円/大学生・高校生420円/中学生・小学生210円 
くわしくは下記のサイト。
http://www.uam.urawa.saitama.jp/news.htm

■アフガニスタン女性と子どもの写真展
??戦争で犠牲になるのは、子どもたち
撮影・川崎けい子(アフガン女性と子どもを支援する会)

カブール(アフガニスタン)、ペシャワール(パキスタン)郊外のジャロ
ザイ・アコラ・ヘワの各難民キャンプ、イスラマバード・ラワルピンディ
・クエッタ(パキスタン)など都市部の難民の生活、RAWA(The Revolutio
nary Association of the Women of Afghanistan )の活動の模様など、
110点余りのカラー作品を展示。
現在の世界の不平等と抑圧の実相と、そのなかで生きる人びと、女性たち、
子どもたちの痛苦と尊厳に満ちた表情を刻み込んだ写真作品。

期間:10月18日(木)〜24日(水)
開場時間:10:00〜20:00(無休)
会場:東京飯田橋セントラルプラザ1F・区境(くざかい)ホール
(JR飯田橋駅となり)
入場無料。
お問い合わせ先:03-3792-9651(オーロラ自由アトリエ)
寄付受付:郵便振替00150−2−184650/アフガン女性と子どもを支援する会

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■「マエストロ鏡玉のメディアジャーナル」/マエストロ鏡玉
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 第30回 敵の顔

 で、結局「新しい歴史教科書」の問題はどこへ行ったのでしょう。採用
もあまりなかったので、よしとしようということなのでしょうか。とにか
く年号が羅列した教科書は勝利し、史実への価値判断は現場の教師たちの
「常識」に委ねるということになったようですが。しかし、私は忘れない。
ある出版社関連の飲み会で、いつもの調子で、「教科書なんかどうでもい
い発言」をしたところ、「自分の子どもがあんな教科書で教育されていい
と思うんですか!!」とまだ20代と思われる青年に詰問された。コイツ
らすぐ逃げ場のないように人質、この場合は子ども、をとりやがると思い
つつ、言った。「いやあまあ、教科書を客観化できるぐらいの知性は、家
庭で身につくのではないでしょうか。みなさん立派な親御さんのようです
し」。
 新しい歴史教科書をつくる会の事務所に爆弾騒ぎがあったことを、私は
忘れない。あれは立派なテロ行為ではないのか。なぜあれを徹底して非難
しないのか。あれこそ、言論の自由、思想の自由を否定する行為ではない
のだろうか。同じく右翼の執拗な街宣活動も否定する。今の歴史教科書に
ついていえば、価値判断の伝達を委ねられた教師は、日本近現代史上の多
くのテロ行為を、断じていけないことであるという教育をなしてきたのか、
あるいはなしえるのだろうか。例えば「アナーキスト主義者の大杉栄は虐
殺された」という客観的事実は、軍部によるテロ行為への批判ではなく、
「アナーキスト主義者だから」大杉栄は殺されたという教育になっている
のではなかろうか。
 とすすめて、みなさまお分かりになるように、以上の文章では「新しい
歴史教科書をつくる会」と右翼を同一視し、「つくる会」の反対者を過激
派と同一視するというひどいことをして、テロの否定という論を展開して
いるわけです。「つくる会」は右翼を同盟者と思っていないし、その反対
者は過激派を同盟者と思っていないでしょう、多分。でも違うと表明しな
ければ、つまりは暴力による言論や思想の弾圧を黙認していることになり
はしないだろうか。
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 あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられ
ている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のた
めに祈りなさい。 『マタイ』5:43-44

 キリスト教の中心的な教えは、「愛」などではなく、いわんや「愛敵」
の実践なぞではない。イエスという人物を唯一絶対で最後的なメシア・キ
リストであり、そのことを信じることが救済の唯一絶対の条件であると主
張することにおいてである。が、引用した「愛敵」の戒めは非常に独特な
ものである。このイエスのことばが意味するところは、田川健三氏の理解
によると「隣人を愛せ」という主張はおのずとその影として、「敵を憎め」
という主張をともなわざるを得ない。「あなた方はそれを意識していない
だけだ。表にかかげる理念の影に、無意識に何をかかえこんでいるかが問
題なのだ。だからこそ、あなた方に言ってやる。そうではないのだ、敵を
こそ愛せ。「この言葉は、支配権力が「敵」をつくりだすことによって、
人民をみずからの支配下にかかえこむことに対する逆説的な反抗として、
このように言われてこそ意味をもつ」(『イエスという男』)。
 当時のユダヤ教会社会の支配者が憎むように促しているのは、まさにイ
エスその人であり、イエスのような人々であり、さらにその上のローマ帝
国という支配者が「敵」としているのは、端的に彼らの支配に抗う者たち
であり、その抵抗者を生み出すようなパレスティナの貧しい、そして虐げ
られ深い怨嗟の念を抱いている者たちのことなのだ。「愛敵」の戒めには
支配構造にあぐらをかいている「自己義認的な者」たちへの怒りがある。
ここにはそれらの者によって排除された「汚れた者、罪なる者」の視線を
もつ、イエス像があるのだ。

 わたしたちは今、「現在のイエス像」を語らねばならない。

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■「虚実皮膜の書評」/キウ
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 『センセイの鞄』 川上弘美 平凡社 01.6

 同著者の『物語が、始まる』(中公文庫)を読んで、男の雛形を手に入れ
たという始まりに驚きを感じた。その雛形は主人公の女性と暮らしていく中
で徐々に人間の男らしくなっていくのだけれど、老化して再び雛形に戻って
いく。

 そのような特異な状況設定で寓意性の強い小説を書き継いできた著者の最
新作は、そういった日常性を破るような設定はなく、淡い、穏やかな筆致の
中で物語が進む。

 しかし、そうだろうか。寓話化され、我々の日常に食い込んでくるような
特異さは、この小説に別のかたちで描かれてはいないだろうか。

 主人公ツキコさんと高校時代の国語のセンセイとの恋愛物語、ではあるの
だけれど、センセイは七十になろうという年齢であり、ツキコさんはそろそ
ろ四十に手が届くかという年齢。

 行き付けの飲み屋で再会した二人は、特に約束することもなく一人で店に
来て、相手が来ていればその隣りに座り、それぞれ注文をして飲み食いし、
会計も別々にして帰る。

 そのようなつきあいから少しずつ交流は深まっていくのだが、一線を越え
ていかない。常にある距離を保っている。先にその二人のあいだにあるバラ
ンスを崩してしまうのは主人公のツキコさんであるけれど、センセイは依然
として距離を保つ。

 この奇妙な関係の二人の会話の妙が、小説全体を形作っている。その会話
の中に、ツキコさんの心の揺れ動き、センセイの精神のありようが、くっき
りと浮かび上がってくる。

 センセイが意を決して一線を踏み越えて二人が結ばれていく過程において
も、センセイの調子が変わらない。この一貫性が小説の中心をなしている。

 ともかくセンセイの人物造形が素晴らしい。芯の通った、屹立した精神性
を感じさせる。こういったことを感じさせる小説というのは存外出会い難い
ものだ。前回このメルマガにて紹介した話を引きずるのも恐縮だけれども、
宮内勝典の「ぼくは始祖鳥になりたい」のように物理性と精神性を対立させ
たり、スプーンを心の力で曲げたりすることに、精神性があるのではなく、
そのような二項対立を超えたところにこそ「精神」は見出されるのだ。それ
は、テロに「精神」がなく、その報復にも(おそらく)「精神」がなく、そ
のような対立構造とはまったく別のところにしか「精神」はないように。

 それは、このセンセイのような存在にこそ、見出されうるようなものだ。
旅行のたびに買った汽車土瓶をならべ、そのひとつひとつにまつわる思い出
を語りつつ、そういう物を蒐集することが趣味なのかとツキコさんに問われ
れば、そんな酔狂なことはいたしませんと言い放つ、ただ捨てられぬだけだ
という、「精神」とはそういう瞬間にこそ見出されるものなのだ。

 もうひとつ。二人がおでん屋で飲んでいて、隣の酔っぱらった男に絡まれ
る件りで、センセイは酔いつぶれた男の耳からピアスをする。センセイはツ
キコさんにこう話す。

  「ツキコさん、ワタクシは、相手をこらしめるためにこういうことをし
 たのでは、ありません。ただ、いまいましく思っている自分を満足させる
 ために、すったのです。そこのところを、勘違いなさらぬよう」(P112)

 ものをすってはいけない、ということが「精神」なのではない。上記の引
用のように認識する、その認識の出発地点にあるものが「精神」なのだ。

 男の雛形はここまで来た。著者の書き連ねられたその作品の中で育まれ、
成長し、ひとつの「精神」として形作られた。それもこのようにとても読み
やすい形で提示された。このようなことは、なかなかあるものではないと思
う。是非はともあれ、村上春樹が一方において作り上げた「精神」に拮抗し
うるし、それぐらい多くの読者に恵まれていい作品だろう。

 ラスト、亡きセンセイの形見にもらったからっぽの鞄の中身を、ツキコさ
んは覗き込む。その空間に、何を見るのだろう。からっぽの鞄は何を訴えか
けてくるのだろう。読者それぞれがその空間を見つめればいい。

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■「一字千金の記」/グッドスピード
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 「校正の歴史」

 そもそも誤字・誤植を発見して訂正する「校正」の歴史とは、どういうも
のだったのだろうか?
 英文学者の外山滋比古氏は、最近出版した『古典論』(みすず書房)のな
かでこう書いている。
「校正はもちろん印刷が始まってから生まれた作業で、印刷術が定着するま
で校正ということは存在しなかった。印刷が行なわれるようになってからも、
なお、校正ははじめから整備されているのではなかった。」

 ということは、印刷がはじまるまでは「校正」という概念そのものがなか
ったのか? 逆に言えば、印刷術の発明と進展によって「校正」が誕生した
と言えるのだろうか?
 同書で外山氏は、『オックスフォード英語辞書』によると、英語ではじめ
て「校正」(proof)ということばが使われたのは1600年であると紹介して
いる。

 たしかに「誤植」は活版印刷のたまものだろう。しかし「間違いを正す」
という概念と行為が、それ以前にはなかったとは言い難いように思う。なぜ
なら、「間違いを正す」という概念と行為が人間の身になかったとしたら、
たいへんな事になるからだ。社会というものが成り立たない。間違いを正す
ことができない人間ばかりでは、それこそ無法地帯で共同体など組織できな
いだろうから。

 ならば、いわゆる「誤字」を直すという行為は、印刷以前にもあったはず
である。またまた逆に言えば、そうでなければ印刷物など誕生しなかったの
ではないだろうか。というのも「間違いを正す」という行為は知的な行為で
あるからだ。(でもほんとうに知的かどうかわからない)

 じゃあなぜ、印刷術が発明され、普及されるまでの決して短くない期間
(100年あまりと言われる)、「校正」が「いい加減」だったのだろうか? 
想像をふくらませてみると……。

●植字工が誤植を直すことを面倒臭がった。(あるいはそういう知識がなか
 った)
●著者が校正を面倒臭
がった。
●ゲラ(校正刷り)を出すという考えがなかった。(あるいは思いつかなか
 った)
●校正そのものの技術がなかった。(どのように直してそれを人に伝えるか
 という技術)
●赤鉛筆がなかった。(これは赤鉛筆の歴史にあたらねばならない)

 まあ、常識的に考えられるのはこのあたりだろう。
 要するに、印刷機や印刷システムのインターフェイスに、それにかかわる
人々が戸惑っていたのではないか。それが試行錯誤をへて、手探りで「校正」
という技術を会得してきたのではないか。そう思われる。
 そして「間違いを正す」ということが強く求められたのは、印刷術が聖書
と深いかかわりを持っていたことにも起因しているのではないか。

 聖書とは神の教えであり、原典(オリジナル)どおりでなければならなか
ったことを考えると、やはり間違った字を放置したままなのは許しがたいこ
とである。それはまた、印刷物(本)が宗教の布教のためのメディアだった
からでもある。だから、間違った字は間違った教えと考えられ、神に背く行
為となり、そのために「校正」が強く意識されたのだろう。そうでなければ、
こんな面倒なことをすきこのんでやらなかったはずだと、私は思う次第であ
る。つまり、誤字・誤植は恥ずかしいことであるから校正するというのは、
近代が生み出した意識であり、そもそも「校正」とは信仰心の現われだった
のである。そしてさらに言えば、「校正」とは命懸けの行為だったのだ。
(第25回・了)

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■あとがき
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まずは、本号の発行が夜になってしまいましたことをお詫びいたします。
さて、いまやメディアを持つ世界の人々は、テロ恐怖症候群といった一種の
病に冒されているようだ。何かが起こると、すぐにそれが今回のアメリカで
のテロ事件と関係があるのではないかと疑ってしまう。それは人々にストレ
スを与えるはずだ。そのストレスが別の形で噴出する。まさに悪循環。それ
を断ち切るにはどうしたらいいのだろうか。そう考えていて発行が遅れたの
であります。たとえば、世界に幸福をもたらす攻撃なぞないものか。マイナ
スイオン攻撃とかさ。(グ)
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