| 第10回 デュットマン、グローバル化時代の寵児
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2000.03.25.
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予告通りであれば今回はジョルジョ・アガンベン(1942-)紹介の第二弾であるはずだが、当のアガンベンの講義を聴講し、ご本人としばしばコンタクトを取られている人物から紹介記事をいただくことができた。私の稚拙な読解は免除され、氏の原稿が、来たる3月31日に配信する臨時増刊号「特集:バイオポリティクス」に掲載される。なお4月には更に1回ないし2回の臨時増刊号を
配信し、フーコーから受け継いだこの地平を模索する。この模索を開かれたものとするために、今さまざまな方々とコンタクトを取っている。読者であるあなたもそのお一人であるかもしれない。
今回取り上げるのは、1961年スペイン・バルセロナに生まれ、ドイツで学位を取りフランスとアメリカで更に学び、オーストラリアやイギリスで教鞭を取っ
てきた新進気鋭の哲学者アレクサンダー・ガルシア・デュットマンである。彼は先のアガンベンの英訳著書にも解説を書いており、エマニュエル・レヴィナ
ス(1906-1995)とジャック・デリダ(1930-)の後継者的存在の中では突出している若手である。
私はおそらくここで、ガルシア・デュットマンと並んでサイモン・クリッチリー(1960-。イギリス・エセックス大学教授)も挙げるべきだろう。97年に
『非常に少ない…ほとんど無:死、哲学、文学』をラウトレッジから公刊し、 99年1月『倫理-政治-主体性:デリダ、レヴィナス、現代フランス思想につい
て』ヴァーソ、同年4月『脱構築の倫理[第2版]』エディンバラ大学出版(初版 は92年ブラックウェル)を刊行し、やはりポスト・デリディアンとして第1級
の地位を占めている。この場合、ポスト・デリディアンとは、デリダの思想に依拠しつつもデリダ研究家としてとどまることなく、思い切ったその応用を展開している、ほぼデリダの子息子女の世代である若い哲学者、というふうに私は意味させているつもりなのだが。
以下に紹介するデュットマンのプロフィールは、彼の著書やネット上から集めた情報と、彼自身に質問して、回答・補足してもらった情報のふたつを元にしている。
アレクサンダー・ガルシア・デュットマン(1961-)はバルセロナに生まれ育ち、ドイツ語学校に通った。名前から察するにドイツ系ではあるがスペイン人
との混血かもしれない。14,15歳の頃から10年間ドイツに移住し、フランクフルト・アム・マインのヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学で哲学博士号を取得した。博士論文『思惟の記憶:ハイデガー、アドルノにかんする試論』はホルクハイマー(1895-1973)とアドルノ(1903-1969)の弟子であり、日本
でもよく知られているアルフレート・シュミット教授(1931-)によって審査された。この博士論文は後の91年にズーアカンプから出版されている。
86年から92年まで彼はフランスに渡り、パリの国際哲学学院で教壇に立つ傍 ら、デリダの講義に通った。89年、28歳の折に、『贈与された言葉:記憶と契約』をガリレーより公刊。デリダに捧げられた本書は、デリダ、サラ・コフマ
ン(1934-1994)、フィリップ・ラクー=ラバルト(1940-)、ジャン=リュック ・ナンシー(1940-)の責任編集による名シリーズ「フィロゾフィ・アン・エ
フェ(実際の哲学、とでも訳したらいいのか)」に収録されている。
92年、アメリカ・スタンフォード大学のメロン・フェローとなった彼はサンフ ランシスコで2年間を過ごし、94年から96年まではイギリス・エセックス大学
の講師としてロンドンで暮らした。97年はオーストラリア・メルボルンに移っ てモナシュ大学の教壇に立ち、98年以後はロンドンに帰って、ミドルセックス大学の現代西欧哲学センターの研究教授として活躍している。いやはや、移動距離の大きいこと。
こうした間にも彼はさまざまな専門誌に寄稿しながら、93年にはフランクフルト・アム・マインの大手出版社フィッシャーから『エイズとの不和――あるウィルスについて熟考され語られたこと』、97年に同都市の老舗版元ズーア
カンプから『諸文化のはざまで――承認をめぐる闘争のさなかの緊迫』を刊 行。同書肆からは、デリダのドイツ語訳を立て続けに発表しており、88年に
は高名なハイデガー論『精神について』を、92年には『他の岬』と『法の力』の翻訳出版した。90年にベルリン所在のブリンクマン&ボーゼから刊行
された『詩とは何か』の翻訳者も彼である。
また、96年にはおそらくスイスの版元であろうクラウス・ベーアから『この 世界のすべての言葉と沈黙において愛とは何か:ニーチェ・系譜学・偶然性』
という小著を刊行している。これはもともと93年の「アメリカン・イマー ゴ」誌50-3号に掲載された論文である。
最近の動向。昨年秋にニューヨーク大学でアヴィタル・ロネルのもと、ドイツ 文学の講座で客員教授として教鞭を執り、アドルノ論を講じた。10月には
オーストラリア・ウィーンの気鋭の出版社トゥリア+カントから最新刊『友たちと敵たち。絶対的なるもの』を刊行。
来月からは著書の英訳版の刊行が続く。4月に『諸文化のはざまで』がヴァー ソから、6月には主著『思惟の記憶』がアスローン(イギリス)より、8月に
は『贈与された言葉』が英題『言葉の贈与』として同じくアスローンで。そし て最新情報では、今年の秋、ズーアカンプから近刊『芸術の終焉=目的』が予定されている。
デュットマンが一貫して研究しつづけてきた西欧文明の批判的根源的解明の核には一方にアドルノ、他方にデリダがいる。刊行時にラクー=ラバルトに捧げ
られた博士論文『思惟の記憶』はハイデガーとナチズム、アドルノとアウシュヴィッツという糸を縒り合わせ、民族主義的絶対性と倫理主義的絶対性が交差する地点を探求する。『贈与された言葉』においてはその二者にヴァルター・
ベンヤミン(1892-1940)とフランツ・ローゼンツヴァイク(1886-1929)が加わり、固有名、翻訳、身振り、メランコリア、といったキーワードが行き交い、言語と歴史の深淵を問う。
そうした基礎に立ち、その後デュットマンはエイズや異なる文化間の軋轢を論じつつ、他者を承認することとはいかなる事態であるかを執拗に探求してい
る。最新刊『友たちと敵たち。絶対的なるもの』と近刊『芸術の終焉=目的』 の内容について、彼自身につい最近取材できたので、以下に簡単に紹介する。
――昨年10月に刊行された『友たちと敵たち。絶対的なるもの』で読者に伝 えたかった主要なメッセージは何でしょうか。
AGD:友愛というのは、他者と意思の疎通ができるということの無条件性と無限定さのうちに存在し、敵対というのは他者が私を迫害し抹殺しようとする無条件性と無限定さのうちに存在します。ゆえに、いずれの場合も問題なのは何かしら絶対的なものです。しかし、友愛の絶対性はいかにしてそれ自身の歴史的側面、すなわち友愛には常に始まりと終わりがあるという事実と、どう関係しているのでしょうか。また、敵なるものはどれくらい私の認識に依拠しているのでしょうか。つまり私が彼を敵として認識するという事実
に? これがメッセージです。
――今秋近刊予定の『芸術の終焉=目的』での企図を簡単に教えてくれませんか。
AGD:『芸術の終焉=目的Kunstende;The End of Art』は3つのパートから成ります。まずはじめに私はendeという言葉における分裂について論究を試みます。終わること=目的目標にすることは、常に達成の可能性と挫折の可能性とに引き裂かれている、ということについて。第2のパートでは、芸術の終焉
=目的と表象像の禁止との関係を探求します。第3部では芸術と公共空間の関係性を論じます。
以上。多忙と言おうか世界を飛び回るのが好きなのだと言おうか、昨年末アメ リカにまだ滞在するかと思いきやバルセロナに出向き、イギリスに戻ってしばらくは連続する英訳版の校正に腰をすえるだろうと見ると、つい数日前には今週は香港に行くとの答えだった。表題に掲げた「グローバル化時代の寵児」と
いうのはあくまでも凡庸なイメージにすぎない。すぎないが、もっともフラッ トな意味で彼は時代の典型例なのだろう。
彼とコンタクトを取ることが出来たのは、フィンランド・ヘルシンキ大学のパ ヌ・ミンキネン氏の仲介による。99年秋のこと、氏が編集し
ている、法哲学と主権を主題にしたウェブ学術誌「バシレウス」との出会いがすべてだ。先のサイモン・クリッチリーも編集顧問として名を連ねているこの「バシレウス」にナンシーと
デュットマンの往復書簡が連載で公開されていたのである。ミンキネン氏は日本語は理解しないかもしれないけれど、氏には改めて大きな感謝の意を述べたい。
さらにもともとデュットマンの処女刊行書である『贈与された言葉』に気づいていながら長いこと通り過ごしてしまった私の胸に、彼の名前を再度刻印したのは、H.T.氏である。かつて彼の月1回の講義に通年出席したことは私に膨大な情報をもたらしたと思う。もっとも私はその膨大な情報のシャワーを浴びたにすぎない。最近T夫人の著書であとがきの謝辞の文中に「彼の数々の助言…その多
くはわたしのキャパシティを上回っており、しばしばわたしを混乱に陥れた」 との一節が織り込まれていて微笑した。私から見て、おだやかなおふたりは理想のカップルである。T氏からは淡々と「あ、そう」と返されそうだが、私は氏と夫人にも大いに感謝している。
最後に気になるデュットマンの邦訳であるが、私は部分訳の存在を知らない (たぶん、存在しない→追記1)けれど、著書の翻訳ないし翻訳企画が複数進行中なのは知っている。いずれも難物だそうだ。しばらくは原書と英訳書とを行ったり来たりしてみよう。いずれにせよガルシア・デュットマンへの注目度は今年から世界的に高まるに違いないだろうから。[記:2000年3月24日]
追記1:記事をお読みいただいたY.M.さんからデュットマンの邦訳論文が存在 していることを教えていただきました。同氏からは未邦訳論文の掲載されてい
る原典に関する情報もいただきました。Y.M.さんありがとうございます!なお該当邦訳論文は以下の通り。
アレクサンダー・G・デュットマン「仮面への畏敬――モード・エロス・性」 高田珠樹訳、『現代思想』1989年10月号・特集=モード、pp.140-158
現在この号は品切、古書店ないし図書館しか利用法がないようです。
・AGDの著書一覧(雑誌論文は未収録)
・ バシレウス http://www.helsinki.fi/~rpol_bas/
年2回発行とゆるやかなサイクルだが執筆陣は魅力的。
・ズーアカンプ:http://www.suhrkamp.de/index.htm
・フィッシャー:http://www.fischer-tb.de/ftv/home.htm
・スタンフォード:http://www.sup.org/
・SUNYプレス:http://www.sunypress.edu/
・ヴァーソ:http://www.versobooks.com
・サイモン・クリッチリー Simon Critchleyの主要著書
“Very little...almost nothing : Death,philosophy,literature”
1997,Routledge,isbn:0-415-12822-6,$22.99
“Ethics-politics-subjectivity : Essays on
Derrida,Levinas and contemporary French thought”1999,Verso,isbn:1-85984-246-1,$20.00
“The Ethics of deconstruction : Derrida
and Levinas”Second edition,1999,Edinburgh
University Press,isbn:0-7486-1217-3,£16.95
・ ラウトレッジ:http://www.routledge.com/
・ エディンバラ:http://www.eup.ed.ac.uk/home.html
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