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第11回 コジェーヴの二著再刊
2000.04.25.

つい数日前、ヘーゲル最晩年の『法哲学講義』が長谷川宏氏の訳で作品社から刊行された。聴講生グリーズハイムの詳細な講義録の本邦初訳である。死刑を論じ、貧困や官僚制の腐敗に言及するヘーゲルの肉声はじつにいきいきとして いる。プラトンしかり、カントしかり、哲学者たちは晩年の境涯にしてようやく、国家と法について、共同体の理想について思索をまとめようと試みてきた。言ってみれば法の問いはアルファ(最初の、根源の)にしてオメガ(最後の、究極の)だ。寄り道や袋小路や異郷や彷徨が存在するにせよ、すべての道はローマへと通じているというのも、真である。

ヘーゲル学者として著名なアレクサンドル・コジェーヴ(1902-1968)は『法の現象学』を次のような言葉ではじめる、「人間的現実を研究すれば、遅かれ 早かれ必ず法の現象にぶつかる」と。長谷川氏がRechtという述語を「法」や「権利」というほかに「正義」とも訳しているのはまことに正当だし、正義論 の重要性はロールズの示唆を待つまでもなく現代において明らかである。ヘーゲルの「法哲学」が示した家族・市民社会・国家の分類と諸分析は、有効性の多寡はともかく、こんにちもなお議論の包括性を保持している。

コジェーヴの説得力には恐るべきものがある。彼の講義録と著書にはおそらく近代を総括しうるすべての概念が百出する。マルクス化されたヘーゲル、たぶんそうだろう。議論の整合性に思わずぞっとする。ほとんどフィクションのような論旨だが、納得してしまう。

彼がナチスの侵略から逃れ、1943年夏に一気呵成に書き上げたという600頁もの大著『法の現象学』には「普遍等質国家」という鍵概念が出てくる。人類全体を成員とするがゆえに「普遍的」であり、諸個人が私的利害を持たないゆえに「等質的」である国家、万民が普遍的哲学を共有し、一人一人が等しく賢人 である共同体。それは野蛮な人間的歴史の終焉後に実現されるユートピアのようなものなのだが、これをコジェーヴは「帝国」とも呼び変えており、いささ か不気味ではあるにせよ積極的な意味を付与されている。第一部「法としての法」を参照のこと。

ネグリとハートの『帝国』に目を通すと、ヘーゲルや「歴史の終わり」、フランシス・フクヤマについての批判的言及はあっても、コジェーヴの名前は一切見当たらない。『ディオニュソスの労働』にも、昨年邦訳が刊行された『転覆の政治学』にも、ヘーゲルの法哲学、歴史哲学、国家論には論及があってもコジェーヴその人が引かれることはない。

全世界へボーダーレスに浸潤していく「帝国」、その組替えを果敢に模索するネグリもハートも当然フランス語は読めるのだが、もっとも影響力のある、一方の「帝国」論者コジェーヴになぜ言及しなかったのだろうか。コジェーヴの言う「普遍等質国家」=「帝国」の危うさと理想は、ネグリとハートの「反帝国」とは相容れないまま隣接する。混同と峻別は常に政治的に作動する。それらの差異と対立は明確だが、一方で、狂気と理性、成功と失敗、理想とディストピアは常に紙一重である。しばしば両極は熱情において相通ずる、という事実が歴史的に存在した例も忘れずにいよう。コジェーヴの皮肉たっぷりの帝国 論に対して、ネグリとハートの反帝国論の真価が問われるのはこれから先のことになる。

しばしばあけすけな冗談に、「法」rightの哲学はしばしば文字通り「右」rightの哲学でもある、というのがある。カール・シュミットはともかく、ヘーゲルが右翼的思考に親和性を有することはもっと現代日本の文脈で分析されていい。例えば加藤典洋氏はかなり複合的な左翼的右翼と目されているが、彼のヘーゲルへの関心をどう考えるべきだろう。あるいはこんにちの市民社会論やリベラリズム、欲望的主体論にとって、コジェーヴのヘーゲル読解はどこまで批判的でありうるか。

ちょうどこうした折に先月(2000年3月)にフールビ社からコジェーヴの『皇帝ユリアヌス(331-363)とエクリチュールの技法』が約十年ぶりに再刊され、来月(2000年5月)にはコジェーヴが「暴君と英知」と題した有名な評註を寄 せたレオ・シュトラウス(1899-1973)の『暴君について』がシカゴ大学出版 局から再刊される。後者はヴィクター・グレヴィッチとマイケル・ロスが編纂し、序文と解説を付したもので、もともとシュトラウスが本論の題材として読 解に選んだクセノフォンの「ヒエローン」の逐語的英訳や、コジェーヴとシュトラウスの間で交わされた書簡なども収録されている。

このたび再刊される英語版(91年フリープレス刊)を底本にしている『暴君について』フランス語訳の最新97年度版で確認すると、この書簡集とは1932年から1965年に交わされた手紙のことである。手元にあるのがフランス語版のみで、英語版がないので異同については明言を避けた方がいいのかもしれないが。

この書簡集には一篇だけ、コジェーヴからアレクサンドル・コイレ (1892-1964)に宛てた手紙がまぎれていることに注意したい。著書が近年こまごまと再刊されはじめたコイレの、コジェーヴへの影響もまた黙過できないトピックスである。ドミニク・オーフレの浩瀚な伝記『アレクサンドル・コジェーヴ:哲学・国家・歴史の終焉』(グラッセ社1990年)の邦訳がパピルス より年来計画されていたが、どうなったろうか。楽しみである。

なお、クセノフォンの暴君論「ヒエローン」についてはタフツ大学の高名なペルセウス・プロジェクトでギリシア語版、英訳版がそれぞれ無料でダウンロードできる。便利だ。

問い直したいこと。絶望の極みのその痙攣的手触りを知り尽くしているかのようなジョルジュ・バタイユが、コジェーヴのヘーゲル講義を聴講していて今にも叫びだしたくなった、とはどうした事態だったろう。あらがいえぬ熱病のように、彼の講義を聴講するごとに彼が抱いた絶望とは何だったのだろう。

同時代の著名なヘーゲル学者ジャン・イポリットとコジェーヴの違いは決定的である。バタイユに肉化されたコジェーヴ、そのバタイユとサルトルの狭間で首をひねるイポリット。青土社の『バタイユの世界』に収録されたイポリットとバタイユのやり取りを読むといい。そこにはコジェーヴの不在が鳴り響いている。しかし今問うべきなのは、バタイユの反ヘーゲル主義を思い起こすことだった。

ある種の果てしない無力感の只中で、歴史も人間も知もすべてが、黄昏の薄暮の内に、等質的に普遍的に消え去ろうとしているかのような現在、コジェーヴの予感とバタイユの違和感、ネグリの抵抗とシュトラウスの暴君論は日本の私たちにも何かを教えてくれるに違いない。[2000年4月24日記、文責:五月]

『法の現象学』訳:今村仁司+堅田研一、法政大学出版局、1996年、 isbn:4-588-00526-X、本体8250円。 http://www.terra.dti.ne.jp/~hosei-up/

“L’empereur Julien et son art d’écrire” by Kojève, Alexandre. Fourbis, isbn:2-907374-31-1, 65FF

“On Tyranny” by Strauss, Leo. University of Chicago Press,
isbn:0-226-77687-5, $17.00 http://www.uchicago.edu/

・クセノフォン(BC355‐280等、諸説あり)の暴君論『ヒエローン』のギリシア語、英訳の無料ダウンロード:http://www.perseus.tufts.edu/

文責:五月


■関連リンク集

法政大学出版局 http://www.terra.dti.ne.jp/~hosei-up/

University of Chicago Press http://www.uchicago.edu/

ペルセウス・プロジェクト http://www.perseus.tufts.edu/

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