■「収容所時代」の生政治を問う ジョルジョ・アガンベンの政治哲学
>1 1990年、『到来する共同性』。その背景について


1 1990年、『到来する共同性』。その背景について
2000.03.31.

 ジョルジョ・アガンベンは『ホモ・サケル1』(1995)の「序」の最後に「この本ははじめ、惑星規模の新秩序の血まみれの韜晦に対する回答として構想された[……]」と書いている。

 「新秩序」とは、共産主義を標榜する体制が崩壊したことと、それに続いて議会主義的資本主義が惑星規模で受け容れられたこと、その国際的態勢において強者の論理が有効な批判を見ることなく展開したことを指す。

 思考においてこの状況を肯定する身振りを見せたものとして記憶されているのは、フランシス・フクヤマの『世界の終わり』(1992)だろう。フクヤマは、アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の第2版(1968)の「世界の終わり」に関する議論を流用し、この資本主義のなしくずし的な勝利を「世界の終わり」の「福音」として讃えている。体制の追認である以上、これに限らずこの種の言説は、実際に解決されずに残っている問題を思考しないことを望む人々によって全般化的な力をもって受け容れられた。

 この全般化的な傾向に対して、体制としての共産主義を決して擁護せずに批判的な視点をもち続けることは、必要でもあり困難でもある作業だ。だがこの作業を思考の場において追求することが、幾人かの文筆家によってなされた。それは、別の仕方で共産主義的であることの追求ではなくて(その種の主張は常に見られたが、そのつど裏切られることを運命づけられ、また、裏切られることによって自らの立場を確認するという逆説的な 傾向をもつことが多かった)、別の仕方で何らかの共同性を思考することの追求という形をとった。(この追求は「冷たい戦争」が終わるよりも前からおこなわれていたが、実のところその後にはっきりとした形をとって現れ、読まれた。)

 ジャン‐リュック・ナンシー。ストラスブール大学教授。彼の『無為の共同性』(1983)は既に日本語圏でも翻訳によって知られているが、その後の翻訳紹介が円滑にいかなかったため、残念ながら彼の政治的思考についての理解が進んでいるとは言えない。彼の政治的思考は、『無為の共同性』にわずかに先行する『声の分有』(1982)で基礎的な姿勢が与えられており、雑駁に言えばこの姿勢にしたがってその後のすべてが展開していると言える。

 ハイデガーの「共存在」の構想を意味の地平として再定義し、あらゆる形容を非必然的なものとする「共同性」を構想する、という彼の姿勢は、しばしば「否定神学」につらなるものとして批判されることがあるが、新たな政治に身を置きうるものが主体化を経る前に(あるいはその時に)意 味の地平に同時に創設される(それが「世界」だ)という構想は、政治の条件の規定としては妥当性を欠くものではないだろう。

 ナンシーの場合、どの本から出発してもいくつかの重要な構想に同様に辿りつくことができるが、ここではとりあえず『哲学の忘却』(1990)、『世界の意味』(1993)、『複数的な特異存在』(1996)などの名を挙げておこう。何らの使命(民族、労働、経済……)によっても規定されることのない人間がいかにして政治的でありうるのか(同一性をもたない大衆がいかに政治的意識をもつことができるか)を思考するうえで、彼の本は措くべからざる重要性を依然としてもっている。

[否定神学について一言だけ付け加えておく。それは「……でもなく……でもなく」という定式化に存するとされ、ゆえに肯定的な立場表明から逃 れるという非難がしばしばなされるが、実のところ否定神学において(あるいはその最良のものの目指すところにおいて)問題となっているのは、否定の連鎖それ自体ではなく、それらの否定において言われていないもの自体(それを通じて自ずと言われているもの自体)であり、それは言語活動の措定作用を基礎づけている何ものかに他ならない。それはつまり、共有されているものとしての言語活動自体のことだ。否定神学の神は言語活動が存在することの暫定的なしるしに他ならない。]

 ジャック・デリダ。パリ在の社会科学高等研究院教授だったが、退官した(まだ講義は続けている)。彼がいつから「より政治的」になったとか、いつから「より正義を論ずる」ようになったかとかいう問いはそれ自体としては実効的な意味をもたないが(今となっては、『ポジシオン』(1972)において既にその種の身振りの肯定を確認することは散漫な読者にとってさえ容易なことだし、たとえばジャン‐ポール・サルトルやチャン・デュク・タオを読んでいたことが無意味であったはずもないが、今ここで問題なのはデリダの思考の伝記的展開を遡行的になぞることではない)、『法の力』(1990)の読者は、誤読を誘いかねない「脱構築は正義だ」という表明を読んだあたりから、あるいはまた、論文末尾に顔を出すヴァルター・ベンヤミンの「神的暴力」の構想に「最終解決」の暴力に通じる危険を読みとる微妙な解釈を読んだあたりから、その場で何かが今日の政治に直接に関連するものとして(そして再び)思考されている、ということを理解したかもしれない。

 とはいえ、『ルヴュ・フィロゾフィック』誌が同年に刊行し、フランス内外の著名人が論文を寄せた「ジャック・デリダ」特集(4-6月号)を読むかぎりでは、デリダは依然として、「決定不可能性」の「戯れ」の人、「差延」と「脱構築」の人、あるいは端的に『声と現象』(1967)や『グラマトロジーについて』(1967)を書いた人として把握されており(むろんそれらも誤読ではない)、それらを通じて政治や法や正義について第一 に問い糺す人として姿を見せているわけではない(デリダに師事してヘーゲルに関する博士論文を提出したカトリーヌ・マラブーの論文「暴力の経済、経済の暴力」は、デリダの思考とカール・マルクスの思考の接近を試みている点で例外だ)。

 しかし、『マルクスの亡霊たち』(1993)を読めば、冒頭に書いたとおりの思考にデリダが動かされていることは誰の目にも明らかになる。デリダによれば「新秩序」の浮かれた「勝利」は、「共産主義の死」の喪の作業の失敗であるという。親密な人の死を前にして、人はしばしば鬱に似た状態に入るが、その反動で、躁に似た愉快な勝利感に襲われることもある。デリダは、議会主義的資本主義の「勝利」をこの勝利感になぞらえ、それに対するに、常に亡霊として戻ってくるマルクス的な批判的「精神」たちを立てている。それは、存在論的な範疇化を逃れ去り、そのつど立ち戻って「新秩序」をおびやかす、存在と不在の合い間にある「精神」である。

存在(制度)へのこの亡霊の住み憑き(抵抗)を再評価する「憑在論」 (hantologie) はその後もさまざまな形で展開され(むろんこれは「現前の形而上学」批判にその源泉をもってはいる)、ますます今日性をあらわ にしている。ちなみに、今年度の講義は、チェーザレ・ディ・ベッカリア、 ヴィクトール・ユゴ、シャルル・ボードレール、フリードリヒ・ニーチェ、モーリス・ブランショ、アルベール・カミュ、ジャン・ジュネなどによる死刑をめぐる言説の分析、あるいは人権宣言(1789年の、あるいはまた 1946年の)の分析をおこなった。

 アラン・バディウ。パリ第8大学教授。大著『存在と出来事』(1988)は存在論、集合論、政治、精神分析を総合的に論ずる、狂気じみた難解な 試みだが、それに続いた『不明瞭な災厄について』(1991)や『諸条件』(1992)、あるいは最近では、1998年に同時に出された3冊本(それぞれが存在論、美学、政治を扱う)のうちの1つ『メタ政治の提要』を読めば、政治に対する彼の姿勢をより判明に計り知ることができる。

 なかでも『不明瞭な災厄について』は、デリダに『マルクスの亡霊たち』を書かせたのと同じたぐいの動機から、しかもそれと同時期に書かれており、その時期に切迫した危機感が共有されていたことが理解できるという点からも興味深い。政治に関する彼の主張は、正義の思考を必然性から解 放すること、政治に関する思考を可能なものとして内的に思考すること、とでも定式化することができるだろう。その重要な着想源のひとつに、大学の同僚シルヴァン・ラザリュス(『名の人類学』(1998))の政治的思考があることも付記しておく。

 (エティエンヌ・バリバール、ジャック・ランシエール、フィリップ・ラクー‐ラバルト、アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノ、ルネ・シェレールらの名を落とすのは不当だろうが、ここでは詳述は割愛する。)

 アガンベンの『到来する共同性』(1990)は、そのような同時代的な状況において書かれ、読まれた。冒頭に引用した『ホモ・サケル』の明かしている執筆動機を見ればそれは明らかだ(この状況は『到来する共同性』執筆時には凶兆として予感されていただけかもしれないが)。そして、このマニフェストが切り開いた小径に、『目的のない手段(政治についての覚え書き)』(1995)、『ホモ・サケル1(主権権力と剥き出しの生)』(1995)、『アウシュヴィッツの残りもの(ホモ・サケル3)』(1998)といった仕事が、里程標のように置かれていく。これらについては次回に、これまた大雑把に触れることにしよう。

●高桑和巳(たかくわ・かずみ)
1972年生まれ。東京大学大学院博士課程(総合文化研究科)とパリ第7大学博士課程(文学部)に在籍中。アガンベン『目的のない手段』『ホモ・サケル』(いずれも以文社)の日本語訳を準備中。その他の翻訳として『ミシェル・フーコー思考集成』第4巻、第5巻(共訳、筑摩書房)がある(また同『集成』第7巻も準備中(共訳))。

文責:高桑和巳


■関連リンク集

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2 『到来する共同性』から『目的のない手段』、『ホモ・サケル』へ。

3 「ホモ・サケル」、そしてその生政治における展開

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