| 3「ホモ・サケル」、そしてその生政治における展開 |
2000.05.10.
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『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』の全体は3部に分かれている。
第1部「主権の論理」は、これまで述べたとおりの「例外状態について決定する者」としての主権者の論理をさまざまにあとづけている。暴力と正義の関連、主権権力に先行して前提される構成権力(憲法制定権力)の逆説、「意味なく効力をもつ法」の問題(フランツ・カフカ「法の前」における法の形象をめぐって)などが論じられている。
たとえば、構成権力 (potere costituente)。構成 (costituzione)とは、ヨーロッパ諸語では、憲法のことでもある。構成権力とは、憲法によって構成される諸権力ではなく、それに先行して憲法を制定する源泉のことである。この権力は、自らを他の権力から例外化することによって憲法を可能にする以上、主権権力(自らだけに自然状態を保存して他を統治するリヴァイアサンの権力)へと回収される危険を常にもっている。憲法が制定され、正義が法権利の尊重と混同される時には(つまり、革命時以外はほぼ常に)この危険が作動しているのであり、その危険が事実上存在しない場合であっても、逆説は憲法改正権力の問題などとしてそのまま残る。
[ちなみに、アントニオ・ネグリの同名の書物 (1992) の日本語訳(杉村昌昭・斉藤悦則訳,松籟社,1999)の用いている訳語「構成的権力」は、「構成的」という語が、これこれの事物においてしかじかの要素が構成上本質的であることを指す
costitutivoを想起させる(たとえば水の分子にとって酸素原子は構成的である)ので、避けるべきだろう。既存の憲法
の存在自体にとって、構成権力は、かつて法を構成した、という歴史的な権力行使以外の意味では「構成的」ではないだろう。繰り返しになるが、構成権力は、憲法に対して「構成的」な権力のことではなく、憲法を「構成する」権力、旧体制を脱臼させ更新する権力のことである。]
心的機制との類比において語るなら、ネグリはこの構成権力を、民主主義のリビドーのようなものとして考察していると言える。原抑圧(言語の介入)としての憲法制定を経て、リビドーが主体(主権主体――たとえば人民)へと割り当てられると、それは不可逆的な変質を被ってしまう。ネグリが抽出しようとしているのは、革命の失敗の歴史から逆説的かつ遡行的に垣間見られる、民衆のリビドーの沸騰状態、被構成権力の鎖を離れて荒れ狂う民主主義の力なのだろう。それはくだいて言えば、問題に直面するたびに、法権利に頼らずに自分たちで正義を求める思考の可能性、社会正義を求める知性のことだ。
ここに見て取れるのは、解放の思考において典型的な、ある意味では勇気づけられる姿勢ではあるが――アガンベンも、たとえば諸々の「評議会」に見られる構成権力を否定してはいない――、問題はある。一つは、これが必ず被構成権力との関係に入って主権権力に簒奪されるということであり、もう一つは、例外が規範となった世界においてこの逆説が別の形を取るようになったということである。アガンベンは、全体主義国家における
一党独裁を、被構成権力の傍らに構成権力をそのまま保存する(むろん否定的な)試みとして指摘している。この状況において構成権力をそのまま思考するには、被構成権力から切り離されたものとしてではなく、主権権力によって例外化されているという態勢に置かれたものとして、検討する勇気をもたなければならない。常態化した例外状態――いたるところが収容所と化した状態――において、政治の可能性を思考するとは、収容所においてさえ構成権力を思考する可能性を求めるということに他ならない。
第2部「ホモ・サケル」は、第1部で与えられた理論的枠組みをあとづけるいくつかの歴史的形象を紹介し、詳細な検討をおこなっている。「ホモ・サケル」、「聖化(サクラティオ)」、「捧げ者(デウォトゥス)」、「生殺与奪権(ウィタエ・ネキスクエ・ポテスタス)」、「王の二つの身体」(エルンスト・カントーロヴィチの同名の書物による)、「狼人(ヴァルグス)」などであるが、それらの例の多くは古代ローマから引かれ、「聖なるもの」の原初的政治性をあばこうとしている。
ここでは、作品の題にもなっている「ホモ・サケル」について若干を述べておこう。
ホモ・サケルとは、古代ローマにおいて、親に危害を加えたり境界石を 掘り出したり客に不正を働いたりした者に対する処罰に際しての命名であり、その意味は「聖なる人間」である。それは厳密に言えば処罰ではない。「ホモ・サケル」にされた者は、単に法から外されるのだ。法から外されるとはどういうことか? 儀礼による処罰(犠牲化)から排除されるということだ(彼は死刑には処せられない)。だが、法の保護から外されるのだから、誰が彼を殺しても殺人罪には問われない。犠牲化不可能性と殺害可能性という、一見すると互いに矛盾する二点が「ホモ・サケル」の特徴である。
ここで問題なのは、彼が「聖なる」ものと呼ばれているということである。この命名のために、「ホモ・サケル」の謎は解決が遅れた。19世紀末、ロバートソン・スミスが「タブー」概念をセム族の宗教に適用して以来、「聖なるものの両義性の理論」とアガンベンの呼ぶものが人文諸科学において一世を風靡し、さまざまな矛盾が、宗教的感情の両価性という曖昧な
偽概念によって説明されてしまった。実を言えば、「ホモ・サケル」の逆説的な立場は、「聖なるもの」の両義性にもとづくというよりは、さらに人間の政治性を原初的に基礎づける、主権権力による例外化の構造にもとづいている、とアガンベンは言う。
例外はない、と主張する権力によって、存在しないものとして措定される例外的人物。それは、政治が問題になるとすぐに、西洋の歴史の黎明期に姿を現していた。この「ホモ・サケル」は、姿を変えながら、政治の舞台に出没を繰り返してきた。アガンベンはその網羅的な系譜を展開しているわけではないが、人民主権の原則が獲得される歴史の過程のキー・ポイントで、常にそうした形象が姿を現すことには再三注意を促している。
そして現在、惑星規模で「人民」の主権が獲得されつつあると見なされる時にあって、つまりは例外状態が規範となった時にあって、「ホモ・サケル」は潜在的に普遍的なものとなった。それがあばかれたのが収容所であり、収容所が開示した政治的状況は、我々の生きているこの世界の悲惨の前兆でしかなかったという点で恐るべきものである。
その体制の原則が「生政治」である。「生政治」とは、前回も述べたとおり、権力機構が人間の自然な生を取りこみ、統治の対象とするようになってきたことを指すためにミシェル・フーコーが用いた用語である。
第3部「近代の生政治的範例としての収容所」は、「ホモ・サケル」の普遍化が、生政治にもとづいて惑星規模で展開していることを、さまざまな領域について指摘している。近代的な市民権の基礎の一つをなすと言われる英国法の「人身保護令状」(ハベアス・コルプス)において既に、護られるのが「身体」(コルプス)となっていることを指摘することから議論ははじまり、大衆現象としての難民、「生きるに値しない生」としてナチ体制下で抹消された精神薄弱者たち、人権がないにもかかわらず生物学的にはヒトであることで恰好の実験材料となった収容所の人間モルモットたち、同じく全世界の監獄で恩赦の約束と引き換えに生を奪われた死刑囚たち、蘇生技術の進歩にしたがって生じた「脳死」の「おかげ」で臓器を提供することが可能になった我々の単なる身体、これらが次々と、生政治における例外化という一つの範型の中で読解されていく。
この議論の過程で繰り返し言われるのは、こうした範型にもとづいてこそ現代の我々の政治的範疇は思考されなければならない、ということだ。その意味から、アガンベンは人権概念を批判する。彼によれば、人権が主張されるようになるのと、生政治における身体の例外化がなされるのは軌を一にしている。何よりも、人権は既に、充分な政治的批判力をもてなくなっている(内戦の舞台は既に我々の身体の中になってしまっているし、人権擁護の主張は「人道的」立場においてしかなされなくなっている)。アガンベンは、例外化された単なる生、単なる身体としての我々に共通の思考を練りあげること以外に、現代の政治を批判的に思考する道はない、と考えているのだ。
単に生きていること自体を集団的思考と一致させること。この課題は立てられたばかりであり、アガンベンは思考を続けている。我々にできることは、彼に伴走して思考し、また、彼の思考をヒントにして思考することだ。思考すべき対象は、高邁な深遠なものではない。我々の生そのものだ。
これから少しずつ、日本語でも参照することができるようになるアガンベンの政治哲学は、いろいろな層の人々にとって参考になるにちがいない。まずは、いわゆる「現代思想」に興味をもっていながら、政治への疎通をなかなか見いだせずにいる人。また、既に近年のデリダやナンシー、ラクー‐ラバルト、そしてフーコー、ドゥルーズ、レヴィナス、アーレントなど、遡ってはベンヤミンやバタイユ、サルトル、さらにはマルクスやルカーチに対して、政治的な興味をもっている人。『ショアー』や『スペシャリスト』上映で一般的な認知にいたった「収容所」問題に関心を寄せている人。死刑廃止や移民問題、天皇制、臓器移植問題など各論の展開に関心を寄せている人……。だが、それだけではない。それらの問題に積極的にわり、さまざまな限界に遭遇しているはずの活動家の人々にも、アガン
ベンの思考はさまざまなヒントを与えてくれるだろう。また、生の諸局面で生政治に関わることを余儀なくされている医師その他の人々にも、この思考はインパクトをもって立ち現れるだろう。だが、実を言えば、誰よりまず、実際に生政治的体制のうちにある人々、つまりは実際の困難に巻き込まれている我々が、アガンベンの政治的著作の最良の読者なのだ。
なお、今まで『目的のない手段』として言及してきた本は、日本語タイトルを『人権の彼方』として、以文社から5月20日に発売されることになった。手に取っていただけると幸いである。また、『ホモ・サケル』も以文社から、こちらは秋に刊行の予定。さらに、以下にも関連記事を掲載してある。
「ジョルジョ・アガンベンの政治的思考 『人権の彼方に』から出発して」
http://www.inscript.co.jp/agamben/takakuwa.htm
●高桑和巳(たかくわ・かずみ)
1972年生まれ。上記のアガンベンのもの以外の翻訳に『ミシェル・フーコー思考集成』第4巻、第5巻(共訳、筑摩書房)がある。第7巻、第8巻も準備中(共訳)。カトリーヌ・マラブー編『ジャック・デリダ論』(仮題、共訳、未來社)も準備中。なお、論文に「状況構築マニュアル」(『現代思想』2000年5月号)がある。
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