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第1回 「内面」の底を探る―鈴木志郎康「内面のお話」
1999.05.15.

毎年恒例の自主制作映画の祭典「イメージフォーラム・フェスティバル」に今年も出かけた。仕事の都合上、日本作品のプログラム5つしか見られなかったことが残念だったが、心に残った作品がいくつかあった。特に鈴木志 郎康の「内面のお話」と荒牧亮子の「鎖骨の下の」は刺激的だった。自主制作映画を観ることは楽しい体験だ。経済的な見返りを求めないそれらの作品 は何よりも表現者の「好き」を伝えてくれるから。「今日の芸術」初回は、その鈴木志郎康作品の感想から始めよう。鈴木志郎康は1935年生まれの 詩人・写真家・映像作家。多摩美術大学の教授も務めている。詩集に「石の風」「遠い人の声に振り向く」(書肆山田)、映像作品に「15日間」「風の積分」などがある。「極私」という言葉を発明し、身辺の様子を独自な視 点で捉え直す作風が主だったが、今回は少し勝手が違っている。

「内面のお話」は複雑な構成を持っている。まず作者が登場して十年前に友人から貰ったという枇杷を見せる。瓶の中のそれは十年という年月のため に変色し、とても枇杷とは思えない。作者は「自己」というものも知らないうちに変化を遂げて以前とは別の存在になってしまっているのではないだろうかと指摘する。そこから人間を支える「内面」という不確かさな存在に話 が及び、「人間は内面があるから嘘をつく」という仮説を語る。だが、そこで更に作者が取って置きの「内面論」をぶつ訳ではない。この後は幾つもの 異なる発話の場面の映像が配置される形で作品は進行していき、作者が自説 をこれ以上開陳することはない。観客はそれらの映像を見て各々自分なりの「内面」像を導き出さなければならない。つまり自明と思われていた人間の「内面」のあり方について疑問を覚えた作者と同じ次元に、いきなり観客は突き落とされてしまうのだ。観客は作者とともに手探りで「内面」の概念を巡る暗がりを歩まなければならない。
但し、ここで映し出される映像は特に理屈っぽいものでも何でもない。作者が教師を務める美大の学生たちに嘘話をさせた映像、卒業生の西村君が作った映画まるまる一本の作品内上映(鰻屋でバイトしながら映画を作っている自分の胸のうちを明かすというもの)、最後に映像作家帯谷有理が「映画を 作るのは歴史に名を残したいから」と語り、ギターを片手に歌う映像(自作の子守り歌が美しい)など。これら互いに無関係な映像が寄り集められ、「内面とは何か」という作者の関心の下に再構成されていく。
中でも印象的なのが、山本さんという学生の女の子が、喧嘩ばかりしていたお父さんが亡くなった後、その存在の大きさについて語る場面だ。編集者をしていたという山本さんのお父さんは、「人は一人で生きるのではなく、人と人との関係の中で生きるものなのだ」と少女だった山本さんに教え諭し、そのことが今でも心に残っているということだ。また、日がたつにつれてお父さんの死のショックから立ち直れてしまう自分を、初めて自立した存在になれたと感じたという。彼女はこの「内面のお話」という映画がなければ、関係の中で生きる自分の存在についてこれほど考えることはなかっただろうし、また自分を自立した孤独な「個」として突き放して自覚することもなかっただろう。そう、「内面」があると、突如「自分」というものは突き放す対象になったりするのである。
この映画に出演した人たちは皆、「もう一人の自分」をきらきら発散させている。全くの軽い嘘話から重い内容の実話まで、人が物を語るのはまさに「物語を作る」ということであり、本音というものは「内面」が促す煌く虚構なのではないかと思わせる。あるいは、「内面」というものはもともと「もう一人の自分」なのであり、自己と決定的な関わりを持つ対象に出会った時 (現実の場でも観念の場でも)、「もう一人の自分」が自分に取って代わり、対象と激しく切り結ぼうとするのではないか、そんなことも考えさせてくれる。
逆に言えば、「自分」というものは実は(独特の偏向性を持った)空洞、つまり、通り過ぎる幾多の人や事物を受け止めていく空ろな受け皿であり関係 の結節点に過ぎないのであるが、その結節点において引かれ合う要素同士が 衝突し、激しい化学反応のような現象を起こすことがある。その時「空洞」は「空洞」であることを越えようとし、その運動が、「主体」と呼ばれ「内 面」と呼ばれるのではないか。関係に対して受け身であった空ろな存在が突如として関係の外に立つ「もう一人の自分」への転身を遂げるのである。西 村君が鰻の配達に行った先のビルの高い階で、夜景を示しながら、「ここが東京タワーが一番美しく見える場所」「こういう場を見つけるためにぼくはこの仕事をしている」(少し違ってたかな?)としみじみ語るシーンのことを想い起こしてみよう。東京に住んでいれば特にどうということのない夜景が、アルバイト生活に人生なるものを見出そうとしている西村君から彼の「もう一人の自分」を誘い出す様子は感動的だ。それは山本さんがお父さんの死に出会って、初めて自分という存在を深く省みることと照応する。関係の 摩擦熱が、空洞としての自己の存在を乗り越えさせてくれ、「もう一人の自分」を生み出させていく、ということなのだろう。
そしてこの映画全体が、敢えて自分を曝け出すことをしていない作者・鈴木志郎康の「内面」であり「もう一人の自分」になっていると、ぼくは考える。「極私」という言葉を発明し、自身の日常生活のあれこれを描き続けてきた鈴木志郎康が、遂に狭義の「私の生活」を突き抜け、他者との関係の中に自己を見出すようになった。その姿勢は、人間は関係の産物だと諭した、編集者だった山本さんのお父さんの姿と微妙に重なり合う。ただ、山本さんの話だと山本さんのお父さんは「関係の中で生きる」ことがだんだん苦しくなってきたということだが、鈴木志郎康の方は、「愛情を傾けた対象が自己を語ることを記録するという行為」自体に作者としての「もう一人の自分」、つまり「内面」を見出すことで、空洞としての自己の存在の空しさを乗り越えようとしているようだ。更に、こうした映画が可能になったということは、情報化社会の進化に伴い人が属する共同体の中に安定した自己の確認をしにくくなり、様々な関係を独自に横断する視点を持つことによってようやく自己の存在を確かめられる時代になったということを示すことのようにも思われてくるのである。

文責:忘れっぽい天使


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