| 第3回 詩は今を呼吸するA−川本真知子詩集「勾配のきつい坂」 |
1999.07.15.
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前回紹介した奥野雅子の詩が、傷ついた自己を補償するために想像力を駆使 して虚構の空間を切り開く、そのために現実離れしたイメージを出現させる
こともしばしばだったのに対し、同年齢(1973年生まれ)の川本真知子 の詩(詩集「勾配のきつい坂」ふらんす堂刊行)はより平常心に近い所で立
ち上がる。彼女の詩は決して日常生活から遊離せず、自分の歩いてきた道を 注意深く見つめ直すことに終始する。若い川本の歩んできた道は当然、まだ
長さも短く、幅も狭い。しかしながら、彼女はその小さな世界で起こった出 来事ことごとくを掌握し、独自な見解の基に整理する。アルバムに写真を貼
るように自分の人生のエッセンスを詩集のページに貼り付けようとするかの ようである。
地下鉄の駅は
おならの匂いがするでしょう
雨のはじまりの数滴の匂いは好きですか
一生洗ってもらえぬ犬の顔は
樽に寝かせた土色に匂うのです
女の鼻先の埋まる
男の腋の下はくぐもった匂いで
精液は糊づけされたリネンのように
つーんと匂い
そうして
ゆっくり思い出して
匂いを
いつか嗅いだことがあるのだから
私の匂いは懐かしいですか
(「匂い」全編)
「匂い」というキーワードを基に自分の人生を手早く検索してみたらこうな りました、さあどうぞ、という感じ。地下鉄の独特な空間性、どこかの道端
で出会ったらしき犬の顔、性愛の心地よさ。普段は決して一緒に語られるこ とのない事柄同士がわずか14行の中に違和感なく同居し、対話しあう。そ
して作者自身を同じ「匂い」という観点から好ましく位置づけてくれるかも しれない他者の存在への淡い希望を示して詩はさりげなく閉じられる。この
詩は決して単純に体験を羅列したものではない。目に見えない「匂い」にま つわる記憶を辿ることによって、普段意識に上らないような生活の様々な局
面を自分がどう定義づけているかをいちいち他人に知らしめていきたいとい う強固な意志を表わした詩なのではないだろうか。言い換えると、どんなに
平凡に思える風景でも、自分の人生において自分に出くわしたものであるな らば、それは自分のものの見方と折り合いをつけることによって独自な価値
を誇るものとなるのでなければならない、そう、川本真知子は考えているの ではないだろうか、ということである。この詩における、読者に対する呼び
の語法は意図的なものであるように思える。彼女の心に引っかかった記憶の 位置づけを、読者が共有することを積極的に薦めているのである。彼女が空
間を統御していくやり方は、一見控えめそうに見えて実はかなり強引なもの だ(つまりずーずーしいのである)。
「ミモザの雪」という詩は、思いがけなく昔の男から便りを貰ったという設 定だ。その便りの字は「下敷きの罫線に/やけに忠実になろうと努力したあ
とがあって/ところどころふにゃふにゃしてしまっている」。そしてその「 暖かい手紙は/もう今は私を/突き離しも/しないかわりに/手繰り寄せる
こともしない」。昔は恋のいざこざがそれなりにあったけれど、月日がたっ ていいお友達になれる距離ができてきた、ということだろう。「私」はその
手紙をしのばせて外出しようとする。その時の描写。
昨晩一晩で
寝ててちっとも気付かなかった
雪が
十センチも積もっている
結晶が音を吸っている
なんてちっとも気付かなかった
<中略>
今夜も粉雪がすこし降るといい
雪も
むごいことも
いつしか溶かされ
なだらかになるから
この部分で詩句は次のようなことを表わしているのだろう。つまり、朝戸外 で出ようとすると一面雪だった。積もった雪が周りの騒音を吸い込んで辺り
は静か。まるで、月日が様々な過剰な想い出を吸い込んで、恋人だった男の 心を静かに成熟させているように−。
「雪」は「私と男との距離」の比喩として使われ、美しい都会の雪景色はそ のまま作者にとっての恋愛の円満な清算を意味するものとして輝く。こうし
て空間は、作者の個人的体験によって限定された意味合いを持たされ、人生 のアルバムの1ページを満たすことになるわけである。
川本真知子の詩は、現実における自己の位置を冷静に把握し、決して高望み することなくそれを受け入れる人の詩だ。だが、決して引っ込み思案だった
り消極的だったりすることはない。その逆だ。めまぐるしく変化する社会の 中で自分を保って生きるために、自分が体験したことはそれがどんなに些細
で小さな事柄でも必ず省察し、彼女独自の意味合いを与える。川本真知子が 幼少から培ってきた物の見方を意識的に貫くことが、彼女を、彼女自身の体
験の主人にする。これは当たり前のことではない。価値の変動の激しい社会 を生き抜くために、川本は個々の体験を言葉によっていちいち空間化し、そ
の強固な空間の中に再び自己を見出すことにより、外部の価値の変動から自 分を守ろうとしているようかのようである。現実の外の観念的な世界の中に
「逃避」する奥野雅子とは違った、今生きている現実の中にまさに自分の感 じたい現実性を実感する手段としての、詩を書く根拠がここにあると言える
のではないだろうか。
ここでぼくの好きな、若い世代の詩集を数冊スイセンしておきます。
●野村尚志「ビオラ」(七月堂)
びっくりする程素朴で無防備な心情吐露と、体験が詩に書かれ「虚構」
として成立してしまうことへの疑問が同居する複雑な味わいの詩集。
●坂輪綾子「かんぺきな椅子」(東京美術)
その時々の感性の傾きによってイメージもストーリーもしなやかに揺れる
絵本のような少女マンガのような世界。
●今井義行「永遠」(ふらんす堂)
固有名がカタカナ書きされ、現実の意味を失ってふらふら「僕」の周りを漂
い出す。都市に生きる者の不安がそのままコトバになった!
●関口涼子「com(position)」(書肆山田)
語り尽くせない感性の体験に記号はどこまで追いすがれるか。スリリングな
ことこの上ない思考実験。
他にもいっぱいありますが、またおいおい紹介していきます。
それじゃ、また!
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