| 第7回 傍観者としての人生−冬目景の漫画
|
1999.11.15.
|
スコラが出版活動を停止したと聞いて真っ先に心配したのは、このまま 冬目景の諸作が絶版になってしまうのではないかということだった。幸いに
してソニー・マガジンズがそれらの作品を引き継いで刊行することになり、 ほっと安堵のため息をつくことができた。出版社の皆さん、経営しっかりや
ってくださいよ、本は代替のきかない商品なんですから。
冬目景の漫画作品の単行本は次のようなものである。「羊のうた」@〜B 「僕等の変拍子」「ZERO」(ソニー・マガジンズ)「黒鉄」@〜C(講
談社)「イエスタデイをうたって」(集英社)。それらの中にはSF的なア イディアを含むかなりドラマティックな展開を持つものもあるが、全体の印
象はいたって静かで内省的なものである。それもそのはず、彼の作品の主人 公たちは、「自分の人生」という唯一無二の宝物を与えられておろおろして
いる、情けない男の子たちばかりなのだから。
代表作と思われる「羊のうた」は、遺伝により他人の血が欲しくてたまら なくなってしまう奇病を持った姉と弟の物語。主人公の一砂(かずな)は
幼い頃母を亡くし父の友人夫妻にひきとられて暮らしている。
「本当の親じゃない という後ろめたさがおじさんとおばさんをやさしくさ せ」、
「本当の子供じゃない という後ろめたさが俺をいい子≠ノさせる」。
豊かさと自由を保証された生活の中で一砂は窒息寸前の状態になっており、 そんな折り、彼は離れ離れになっていた姉・千砂(ちずな)と再会し、その
血を欲するようになる。ここで描かれる吸血という尋常ならぬ行為への欲求 は、今まで自分の人生をまるでよそ様のものであるかのようにして歩いてき
たことの心理的反動の比喩であろう。他人を傷つけたくない、という名目の 下に今まで「自分」を「自分の人生」の主人公に据えることを回避し続けて
きた一砂を言わば奇病が救う形である。発病によって一砂は死を願いさえす るが、同時にそれは心底愛しく想う者たちの存在に向き合うきっかけにもな
った(吸血の対象となるのは愛しく想う者の血である)。保証された自由の 中では見つからなかった自己の主体性が、病という外圧によって自覚を促さ
れた「愛情」という拘束関係の中でようやく立ち上がるのだ。普通の漫画な らばここから物語がスタートするという地点を、この漫画は逡巡し続ける。
「黒鉄(くろがね)」も変わった設定の作品だ。時は江戸時代、殺された渡 世人の少年・迅鉄は、浪人の天才科学者によってサイボーグとして蘇生させ
られ、以前の人生を捨てて国中を渡り歩くことになる。面白いのは、彼には 声帯がなく従って喋ることができないが、彼が持つ刀(鋼丸という名)には
脳も声帯もあり、迅鉄に代わって彼の考えを代弁したり(テレパシー能力の ようなものが備わっている)会話を交わしたりする、というところ。読者は
主人公自身の声を生の形で聞く(というか読むというか)ことができず、間 接的に主人公の考えているらしきことを理解することしかできない。ストー
リー自体は比較的オーソドックスな義理・人情モノなのであるが、自分の考 えを他者に代弁させてしか表わせない主人公という設定が、物語を奇妙に歪
ませる。迅鉄は自分自身の人生を生きることを早々断念し、「渡世人の生き 方」という外的規範に沿って死後の生を歩くことを、苦い想いを噛み締めつ
つも意外にあっさり受け入れてしまう。自身の死を認めてかえって生き生き している主人公!
最新刊の「イエスタデイをうたって」は一見ごく平凡な恋愛漫画。だがこ こでも微妙な三角関係にある登場人物たちの意識が面白い。フリーター生活
をおくる魚住陸生は、高校教師をしている同窓の女性に片想いしており、告 白してあっさり振られる。この失敗に終わった告白に彼を踏み切らせたのは、
「就職しないのも好きな女に打ち明けないのも何らかの結果が出て傷つくよ りも結果を曖昧にして自分の体裁を守ってるだけなんだ」
という自己嫌悪から。相手の女性に恋焦がれるあまりというより、自分が自 分自身の行動の主人になっていないことを恥じた結果なのだ。恋の告白をす
るというのに、問題になっているのは好きな女性を手に入れられるかどうか ということではなく、自分自身を他人として眺めた時その体裁がカッコいい
か悪いか、ということでしかない。その魚住に片想いする少女ハルはこう語 る。
「おかしいよね…レンアイなんてただの錯覚なのに…わかってんのにそれに 逆らえないなんて」。
「恋愛」というテーマが自己対他者の問題でなく、自己対(他者化された) 自己の問題として捉えられているのだ。
冬目景の漫画は、民主主義の制度が成熟し、「自由」が勝ち取るものでなく品物のように配給されるようになった今という時代の残酷さを表わしている
ように思える。誰もが自分を見詰める時間がありすぎ、自分自身を対象にしすぎて、他人との関係の中に自分を生かすドラマを作れなくなってしまっている。自意識が過剰すぎ、援助交際少女ほどのカラ元気も出せなくなってい
る男の子たちは、否応なしに自分を拘束しにくる「何か」を無意識のうちに じっと待っているのかもしれない。
|