| 第11回 「異常なもの」に潜む「日常性」−映画「フェリシアの旅」 |
2000.04.15.
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カナダのアトム・エゴヤン監督作品「フェリシアの旅」を観てきた。ここ 数年、カナダの映画には当たりが多いようだ。人を殺す仕掛けを持つ不思議
な建物に閉じ込められた男女の運命を描いた「CUBE」、ネクロフィリア (死体嗜好症)の女性をテーマとした「キスト」など。人をあっと言わせる
ような特異な視点から世界を切り取ってくるにもかかわらず、少しも無理や 力みを感じさせず、むしろ淡々とした余韻を残すのが共通の特長。先進国な
がら経済優先でなく、福祉を重視してきた「人道的国家」カナダにおいては、 社会制度の改革ではいかんともしがたい人間の性(さが)の不条理性が、ど
うしようもなくクリアに浮かび上がってきてしまうのかもしれない。
カナダの監督作品であることを強調してしまったが、この映画はカナダと イギリスの合作であり、舞台もイギリスである。あらすじを簡単に説明しよ
う。初めて愛した青年を追ってイギリスにやってきたアイルランドの少女フ ェリシア。彼女は、イギリス軍に入隊したと噂される青年とつきあいその子
どもを妊娠したことで、勘当同然の身となっている。青年の住所もわからず 途方にくれるフェリシアに声をかけたのが中年男ヒルディッチ。一流レスト
ランの支配人である彼は、家に帰れば料理研究家であった母親の番組の古い ビデオを見ながらたった一人で豪勢な食事を取る孤独な男である。フェリシ
アのような家出少女らに声をかけ、その姿をビデオ映像に収めては殺してき た殺人鬼としての裏の顔も持つ。彼はフェリシアの恋人を探すふりをして彼
女を自分の元に繋ぎ止め、機会を見て睡眠薬を飲ませる。必死で逃げようと するフェリシアを、なぜか彼は見逃してやり、直後に自殺を図る。フェリシ
アは無事に社会復帰を果たし、殺された少女たちの冥福を祈る。The end−。
フェリシア(新人のエレン・キャシディが好演)は封建的なアイルランド の村社会で純粋培養されたような無垢な少女である。住所も告げないで去っ
た男の不実を疑いもしないし、声をかけてくれた外国の見知らぬ男の車に躊 躇なく乗り込んでしまう。対するヒルディッチ(ボブ・ホスキンスが恐ろし
くうまい)はというと、これもまた無垢な男であると言える。必要な時(料 理番組の助手)以外は母親から放置されていた少年時代のトラウマを後生大
事に抱え込み、少年時代から一歩も足を踏み出そうとしない生活ぶりである。 母親の料理番組を繰り返し見、母親が推奨した古い料理機器を何十箱も保管
し、母親から注がれなかった愛情を得ようとして「困っている少女」たちに 声をかける。行き場がなくなった少女をわざわざ探し出し、弱みにつけこん
で世話を申し出るのだ。最初は助けられて感謝していた少女たちも次第にヒ ルディッチの空虚さに気づき、逃げ出そうとし始める。彼はそうなる前に少
女らの姿を録画して保存し、その上で少女たちを亡き者にする。手口は恐ろ しく巧妙なのだが、動機は極めて単純だ。実現できなかった理想の少年時代
の回復が行動の全てを支配している。
ヒルディッチはフェリシアを繋ぎ止めるため、しばしば虚言を吐く。同情 を買うためにいもしない妻が死んだと言い、その妻がフェリシアを心配して
言ったという言葉を幾つも披露してみせる。また、フェリシアが故国へ帰ら ぬよう状況に応じて、恋人を探し続けるべきだと言ったり諦めろと言ったり、
子どもを産むべきだと言ったり堕ろすべきだと言ったり、矛盾するアドバイ スを与え続ける。相手を巧妙に情報操作し、きりきり舞いさせているのであ
るが、その実相手にそっぽ向かれることを過剰に怖れているのだ。この辺り は、現実のイギリスとアイルランドの関係の見事な比喩であろう。帝国主義
と無垢な少年の心理的不安との間に、エゴヤン監督は通低するものを見出し ているようだ。他国を支配することで自国のアイデンティティの空虚さを埋
める。利権の獲得以上に、相手が自分を必要としているという幻想を満足さ せるために支配を強化していくのだ。
出来事自体は悲劇的だが、フェリシアはヒルディッチの心の奥底にしまわ れた無垢な心の叫びに気がついた。社会復帰した彼女は「殺人者の中にも魂
はあった」と回想する。ヒルディッチは異常で残酷な行為を繰り返す犯罪者 だが、その動機は、フェリシアが自分を捨てた恋人を探すのと同じくらい純
粋なものであった。殺人は愛情表現の一種なのだろう。つまり、「普通の人」 が「満たされた生活」を維持するためにやっていることを、彼自身にしか通
用しない論理によって行ったに過ぎないのだ。フェリシアはそのことに気が つき、殺された少女たちとともにヒルディッチを哀れむことができた。暗い
トーンの映画だが、このラストの言葉だけで救われた気分になれる。
日常性の中に潜む闇を暴き出すのでなく、闇の中に日常性を見出すこと。 そうすることによって、各々の登場人物を、作者の倫理の尺度で価値づけす
るのでなく、登場人物たちが固有に持つ複数の尺度によって価値づけするこ と―― これは映画という手段によるカルチュラル・スタディーズ≠ナあろ
う。原作はウィリアム・トレヴァー(角川文庫で読める)。エゴヤン監督の日 本公開作品はこの作品の他にXウィート・ヒアアフターB
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文責:忘れっぽい天使
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