■今日(こんにち)の芸術 >第12回 <空気>が書かせる言葉−山田咲生詩集「BALI」


第12回 <空気>が書かせる言葉−山田咲生詩集「BALI」
2000.05.15.

浅黒い肌に澄んだ瞳 鼻筋は通っていて眉は黒い
誰もが、楽しいのだか疲れたのだか分からない笑みを浮かべて、照り返す光
の中、埃っぽい道の脇に群がっている
聞いたことのない言葉のつぶが交わされ、白い歯が笑う、その横で、ベニヤ
の小さな出店を影に、斑の犬が眠っている
群れにまぎれた日本の少女は、目つきがとろりと弛んでいる

− 「ランドスケイプ」より

山田咲生の第一詩集「BALI」(書肆山田刊 1800円)の詩編はこのように何の前置きもなく唐突に始まる。事後的に「解釈」されたあとの統一感 ある「バリ」像など微塵もない。ここに見られるのは、バリの風景の只中に すとんとつまみ落とされた詩人の、左右に不安定に揺れる「視線」の動きと 落ち着かない「皮膚呼吸」のリズムだけだ。注意を向けられた対象たちは一 枚の風景の中に同居しているはずなのに、見慣れない光景に混乱気味の詩人の心の状態を反映してか互いに非連続的だ。白い歯は白い歯、斑の犬は斑の犬、日本の少女は日本の少女。それぞれ別個のものとして存在し、生きた幻のよう に詩人の心をわしづかみする。詩人は一言も言葉を発することができない。その、発せられなかった言葉が、<今・ここ>に、詩集の白いページの中に黒い活字として定着している。いくら見つめても動きはしない詩の活字が、読む行為を通じて、どっくんどっくん脈打ち始めるのが、わかる。

この詩集は、作者が東京での会社生活に疲れ、3週間バリ島に観光旅行に行った時の印象を基に作られたものだ。このたった3週間のバリ旅行が、どうやら作者の運命を変えてしまったらしい。見るもの、聴くもの、触れるもの、その全てが、東京の生活の中でほとんど部品化しかかっていた感性に ショックを与え、ほぐし、生き生きと蘇らせた。気ままに自生するかのようなバリの自然や人間と、機能化された生活から脱出しようと願う日本の女性 との稀にみる出会い。彼女は文字どおり我を忘れて風物を味わうことに没頭する。
それは自分に「身体」があることの発見でもあった。

人の寝静まった夜 青いタオルのすこし剥げた ビニールカーテンのある
バスルームに入る
めったに焼けない肌がやけている 赤を通りこして 黒く
違う人のもののようになった 白い布型のついた裸体が
湿気に曇った鏡の上で ぬるい温水に濡れ 魚の腹のように光っている

−「Mandi」全編

単純な直喩以外技法らしい技法も使われていないこの短い静かな詩は、にもかかわらず強烈な印象を読む人の心に残すだろう。夜風呂に入った詩人は、バリの動植物と同じ自然から与えられた贈物としての自分の肉体の存在に 驚いている。環境に適応してメラニン色素の濃くなった肉体は、東京の生活の中で労働と消費生活によって奴隷化された肉体とは全く異なる。それはそれ自体の存在を悦ぶ「自生する身体」なのだ。
詩の言葉自体も、「そこにただ、ある」という以上の意味を決して背負おうとしない身体の力強さに圧倒されているかのようだ。情景に一切の事後的な意味を付与する余裕をなくし、ひたすら視覚と触覚の微細な動きをなぞっている。詩人の感覚の野の上で、詩の言葉も「自生」しているのだ。

女主人の太い両腕で 髪は容赦なく切り取られる
島の女のように黒くはない肌も 今日はうっすら赤みがさす
髪はタイルを黒々と埋め やがて捨てられ 土になる
払ってもはらっても まとわりつく余分な生命
切り落とすことは こんなにもたやすい

−「熱帯理髪店」より

生命の余りな過剰ぶりは、詩人にその力の源泉について考えさせ、詩人はいつのまにか「神」の存在に触れていく。もちろん特定の信仰の道に入った訳ではない。代用が可能な機能でなく、一つ一つの存在のかけがえのなさを瞬間瞬間のうちに人間に意識させる力。バリ島にはこの力が思いのほか強く働いている。人を越えた、自然を越えたこの力を、「神」と呼ばずして何と呼ぶのだろうか―。

ワヤンは神の子 いえ ワヤンは人の子


ワヤンは島の何処にでもいる
照り返る黒い土の肌
求められる眼差しを 結んではほどき 逃れては繋げる
その合間にも それぞれの祖父は死に 飽くこともなく子供は生まれる
土に呑まれるひそかな快楽
幾度も 幾度も 潜り抜けてきたこと
決して 怖れることはない


ワヤンは人の子 いえ ワヤンは神の子

−「影絵(ワヤン)」より

作者が書くのでなく、場の空気が作者に書かせる詩。
山田咲生の詩は、作者が世界に対して抱いている観念で積極的に空間を切り裂くという質のものではない。辛抱強く自分を機能化された自分から解放してくれるものとの<出会い>を待ち、その<出会い>の場の空気が自分を「書く行為」に突き動かしていくのをまた待つ。積極的な受け身、とでも言いたくなるようなスタンス。奇抜な比喩などまるで使わない、そっけないスケッチのような叙述の裏には心と五感のアンテナがぴーんと張り詰めている。その波長に乗ることができると、書かれてはいない葉のそよぎや鳥の鳴き声を不意に感じてしまって読みながらはっとこちらも身を動かしてしまう。
恋愛やら犯罪やらの事件を文学的にでっちあげなくても、心のありかは充分言葉で伝えられるのだ。大袈裟なドラマや事件の設定によって機能化され、均質化され尽くされてしまった言葉を救う手だてを、山田咲生はこの詩集を編むことによって見事に示していると言えるのではないだろうか。

文責:忘れっぽい天使


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