| 第13回 文学の流通はどうすればいいのか序説
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2000.06.15.
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ぼくは詩を書くということをする人間だが、書き始めたきっかけは「優れた詩作品を読んだから」である。それまで読んだこともなかったようなカッ
コイイ言葉の群れに感動し、こういうものを自分も書くことができればなあ と思ったわけだ(ちなみにそれは瀧口修造の詩だった)。
だが今、「読んだ衝撃が書くことのきっかけ」になっている人はどれだけいるだろ う? ぼくの知っている若い優秀な詩人たちは、仲間同士の作品以外は、ほとんど詩を読んだりしない。「現代詩手帖」とか「詩学」といった詩誌を購読している人も一人もいない。もちろん各々自分の好きな詩人は
いるのだが、そうした詩人たちの作品を文学史的な文脈の中で読むというこ とは全くしない。だから「荒地」だの「列島」だのといった戦後詩に一時代を築いたグループの名を言っても「何それ?」という顔をされる。
要するに、天才詩人崇拝と詩壇崇拝がなくなった、ということ。
それ自体は実は結構なことだと思う。
今まで「詩壇」に認められなければ、という意識が詩人たちの中で強すぎたように思われるのだ。鮎川信夫や吉岡実ら少数の「大詩人」に憧れ、彼らのスタイルを真似することで詩作をスタートさせ、商業詩誌の「新人作品欄」に投稿を続け、選者に認められるようになってようやく一人前―こうしたものが「詩人になる」ためのプロセスだとすると、表現へ向かう意識が、詩壇の中央集権的な美の基準に縛られてしまう。更に、詩壇の中での自分の位置づけなどを考え始めると、これはもう単なる会社の中の出世競争と同じだ。皆、似たような書法で似たようなテーマを扱い、「大詩人」たる選者に認められようとする。詩全体がつまらなくなって詩壇が破綻するのは時間の問題
だったのだ。
では、これから詩にとって夢の未来が待っているかというと、そうではないのだ。各々自由に書き始めたのはよいが、その作品を評価してくれる公共の器がない。従ってどこで誰がどんなことをしていて、そのことにどんな重
要性があるのか、全くわからない状態になっている。その詩を読むことが彼もしくは彼女の作品の発展にとって欠かせない、という場合があったとして
も、そんな詩に出会うためには幸運な偶然に任せるよりない状態である。今、詩人たちの間で「詩を読む力」がどんどん衰弱してしまっている。
文芸評論家福田和也氏の「作家の値打ち」(飛鳥新社)がベストセラーになっている。エンターティメント系・純文学系のそれぞれの小説家の主な作品に点数をつけて格づけし、短評を加えたもの。膨大な作品を読みこなす時間を考えると驚くべき労作だと言えるだろう。彼は、ブームに乗って質の低
い作品も持て囃される傾向のあるエンターティメント文学、「文化」として保護された末活力を失いつつある純文学の両方に危惧を抱いており、徹底して作品の質を問う作業を行うことを「批評家の責任」と考えている。その意気込みが伝わってきて、楽しい本に仕上がっている。
ところで、福田氏がここで目指しているのは、文壇の権威の復権ではないだろうか。小説を中心とする文壇では、詩壇ほどではないにせよ、どうも相当評論家による価値づけの権威が落ちてしまっているらしい。質を問わない
商業主義か、アカデミズムを後ろ盾にした純文学信仰の二本立てからなる文学の流通を、かつて小林秀雄やら江藤淳やらがいた頃のように評論家主導の
ものに変えたいと考え、また変えることが文学の明るい未来のために必要不可欠と考えているのだろう。少数しか生まれてこない偉大な文学作品を、不特定多数の読者がどうしたら「正しく」崇敬することができるのか−福田氏は大衆を導く指導者としての知識人(=文壇内の評論家)の役割の重要性を信じてやまないように見える。
しかし実は、大衆は最早偉大な作品を崇拝することに飽きてしまっているのではないか。大衆は福田氏のガイドブック自体は楽しく消費するだろうが、そこに載っている「質の高い作品」を苦労して読もうとは思わないのではないか。更に推測すると、大衆が真に望んでいることは、作品を消費することよりもむしろ生産することなのではないか、という気がしてくる。
ネットサーフィンすると、自作の小説や詩を発表する場としてホームページを活用する人が夥しくいることがわかる。それはもう、ものすごい数である。昔、同人誌で文学やってました、という人が40代以上の人にちらほらお見受けするが、それらを遥かにしのぐ数で今、若い人たちが文学作品の製作を行っているのだ。もちろん、それらの大部分は「作品」の名に値しないような幼稚なものである。しかし、その、「自分をわかってくれ」という表現欲の噴出だけは、消費欲を上回るものがあるのではないかと思われる(本当は「自分」を超えるものが作品の中に表出されるのでなければダメなのだと思うが)。
目下のところ、ぼくの関心事は、表現欲と消費欲をどう結びつかせていくかというところにある。読み手は潜在的な書き手であるという認識を踏まえるのでなければ、文学や思想の流通はうまくいかなくなるのではないだろう
か。
中央集権的な「一対多数」でなく「多数対多数」の交通の中で、「良いものは良い」と認められていく共通基盤ができていくうまいやり方はないものか。
この問題は随時取り上げていこうと思っています。
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