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第15回 「現世否定」の倫理 ―「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」
2000.07.15.

既に新聞の書評などでも紹介され、あちこちで評判になっているようだ。 ダーガーの絵を世田谷美術館の「パラレル・ヴィジョン」展で見て衝撃を受けて以来(93年のことだ)、刊行を待ち望んでいた一冊であり、出版されて即、予想以上の反響を呼んでいることを心から嬉しく思う。
「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」(作品社 ジョン・マクレガー 著小出由紀子訳 6500円)。

ヘンリー・ダーガーは1892年に生まれ1973年に死んだアメリカの 画家・小説家(?)である。ここで(?)を記した理由は、彼は一生をかけ て創作した膨大な作品群を、画壇や文壇に向けて発表しなかったばかりか、 誰にも見せようとしなかったからだ。
幼年・少年期を施設を転々として過ごさねばならなかった境遇であったダ ーガーは、17歳の時施設から逃げ出し、以後掃除夫などの仕事に従事しな がらほぼ完全な孤独のうちに生涯を終えた。彼の家主であった写真家のネイ サン・ラーナーは、年老いて病院に入院したダーガーの部屋に入室するや否 や、そこに残された夥しい数の絵や長大な小説を見て驚愕したらしい。鋭い 眼識に恵まれていたラーナーはすぐさまその価値を見抜き、作品群の保存を 決意したという。

ダーガーの作品は、それに接した誰もが、直ちに心に激しい傷を受けずにはいられないほど強烈なインパクトを持つものだ。ダーガーは、施設を逃げ 出した19歳頃から長編の物語の構想を抱き、一生をかけて執筆にあたった。 それが「非現実の王国の王国として知られている国の、ヴィヴィアンの少女 たちの物語。あるいは子供奴隷の反乱が引き起こしたグランデーコ=アンジ ェリニアン戦争の嵐の物語」と題された小説で、タイプ原稿で何と1万5千 ページ以上にも及ぶものであるというのだ。その内容は、残虐なグランデリ ン人とヴィヴィアン・ガールズと呼ばれる少女をはじめとするキリスト教徒 との死闘を描いたものであり、晩年近くになってダーガーはその小説のため に挿し絵を描き始めた。美術教育を全く受けていなかったダーガーは、雑誌 に載っているイラストからネガを起こし、それを基に絵を描くことを思いつ いた。彼の絵に登場する少女たちはしばしば裸体で描かれるが、彼女たちに はペニスがついている(世間知に疎い余りダーガーが性差を知らなかったの ではないかという説もある)。
彼は作品の制作に文字どおり命を賭けたようだ。少女たちが殺されていく 戦場の残虐なシーンなど、現実の世界では満たされることのなかったダーガ ーの性欲の激しさが込められているようで、稚拙な技法で描かれているにも かかわらず目を背けたくなるような迫真性がある。

作品社刊のこの本は、ダーガーの絵の図版39点と小説の部分訳、及びダ ーガー研究家であるマクレガーの評論を収録しており、ダーガー紹介にふさ わしい完備された一冊であると言える。また、全くもってタイミングのいい ことに、精神科医であり批評家である斎藤環氏が「戦闘美少女の精神分析」 (太田出版)を出した。ダーガー作品の詳細な分析を含むこの本は、心理学 サイドから現代の文化を論じた希に見る快著である。また淡交社刊行の「パ ラレル・ヴィジョンズ」は、ダーガーの他多くのアウトサイダー・アートの 作品と解説を収めた大変読み応えのある一冊。ダーガーを深く知りたい方は、 作品社の新刊とともにこれら2冊の書物に是非目を通してほしい。

ところで、ぼくはダーガーを異常な天才としてでなく、フツーの欲望をた またま「作品」という形に昇華させることのできたフツーの生活者、として 捉えてみたいと思う。
本欄で、ぼくが様々な現代の芸術作品に触れながら書いてきたことは、つ まるところ「個室性」の問題を核にしたことだったように思う。それはダー ガーの作品において余りにも突出した形で顕れている要素だ。都市化と核家 族化の進行が止まらない(どころか離婚と非婚が増大する一方の)今、この 言わば「ダーガー問題」は人の生き死にをも左右する重大問題へと急成長を 遂げていると考えられるのではないだろうか。
共有される価値観の土台が危うくなった時、人が倒錯に陥るのはごく自然 なことである。
「ダーガー問題」―それは現実世界で希薄になってしまった共同体性を回 復するために敢えて個室にひきこもり、「自分」を限りなく細分化し、自分 自身との関係を濃密にしていくことにまつわる諸問題である。それを現世否 定の思想と言い換えたとしても、恐らく間違いではないだろう。問題は自身 の肉体が住む現実世界を、一方で否定しながら一方で適応していくことであ ろう。

地続きな人間関係が希薄になって、現実の他者との対応が自明なものでな くなり、人間が本来抱え持ってしまっている攻撃性を共同体が解消させてく れる機会(祭りや戦闘の形で)を授けてくれなくなった時、現実の他者に刃 を向けることなくいかに本能としての攻撃性を先鋭化させることができるか。 これは現代の芸術家が抱え持つ最大の課題の一つであるように思われる。
「現世否定」、それは攻撃性の究極の顕れだ。それを首尾よく「個室」の中でやりおおせる者だけが、安全に「現実」の中に戻って来られる。

ダーガーも、現実にはただ一人の少女にも危害を加えることがなかった。ダーガーの作品を見て衝撃を受けるのは、別に少女にペニスがついているからとか、残虐な拷問シーンがあるからだけではない。作者の目が「向こう」を見たきり、こちら側の世界の価値を一顧だにしないことが明らかだからなのだ。彼は意外と現実と虚構の区別がついている。虚構の世界の中で徹底 的に「現実殺し」ができるだけなのだ。彼の小説には自伝的要素がしばしば 混入されるそうだが、それこそが「現実殺し」が徹底している証拠だ。不愉 快な外界から目を背けることなく、ただその事実を個室の中に持ち帰り、切り刻み、彼の好む形に昇華させてしまう。
「個室」化の進行する現代においては、ダーガーがシステマチックに行っ ていたような「現世否定」の方法を、程度の差こそあれ各人が確立しておくことは、健全な日常生活を送る上での条件の一つになる(?)のではないか、などと考えてしまうのである。

文責:忘れっぽい天使


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