| 第18回 大衆性・採算性・芸術性 −「増村保造レトロスペクティブ」
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2000.10.15.
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並木座や大井武蔵野館などの歴史ある名画座が閉じて久しくなるが、日本映画の名作の上映の機会はむしろ 増えているのではないかと思える。銀座シネパトスはレイトショーで田宮二郎と梶芽衣子の特集を組んだばかりだし、阿佐ケ谷ラピュタは本業のアニメ映画以上に古い名画の上映に熱心である。これらの映画館は必ずしも年配の観客やマニアックな映画ファンだけを相手
にするのでなく、面白そうな作品なら古いものでも新作同様に、一般の観客に広く提供していこうという姿勢を持っているように見受けられる(書店で言えば「既刊の掘り起こし」ですね)。「これ知ってなきゃ映画ファンじゃ
ないよ」といった名画座特有の気負いがなく、初めて見にくる人にも無理なく作品の面白さがわかるように気を遣っているのだ。だから若い人も大勢詰
め掛けてくる。
今回取り上げる「増村保造レトロスペクティブ」(渋谷ユーロスペース。
11/4から来年の1/12まで)もそんな頼もしい企画の一つだ。
増村保造(1924〜1986年)は戦後を代表する映画監督。イタリアで本格的に映画を学び、溝口健二らの助監督を努めた経験もある。1957年に「くちづけ」でデビュー。監督作品は全部で57本を数えるが、今回の企画ではそのうちの大半、50本を上映する。ぼくは昨日で10本目を見終わったところだが、いやあ面白かったです。10本見た中でハズレが一本もない。全部見てやろうと考えております。
ちなみに「レトロスペクティブ」のオフィシャル・ホームページもあります。http://www.daiei.tokuma.com/masumura/
増村保造の映画を見る誰もが感ずるのは登場人物たちの「濃密さ」だろう。この「濃密さ 」は、主人公たちが自由な生命体とみなして、課せられてくる様々な制約と力の限りに戦う姿勢を見せるところから生まれてくるものだ。
「兵隊やくざ」では、その制約は軍隊の上下関係である。少しでも上位に ある者がほとんど気晴らしのように下位にある者をいじめぬく。勝新太郎扮するところの二等兵はそれに腕力でもって徹底的に立ち向かい、彼に理解を
寄せるインテリの上等兵は理屈でもって二等兵をサポートする。風呂場での喧嘩のシーンは見物で、少年兵に叩きのめされた男たちが裸のまま何人も折
り重なって倒れている様子は迫力満点だ。折り重なった男たちの裸体は、軍 隊内の序列から解放された、男たちの生命の本質のようにも見えてくる。
また「清作の妻」では、それは徴兵システムと村民の視線である。妾あがりの美しい女性お峯(若尾文子)は生まれた村に帰ってくるが、村民から白
い眼で見られる。模範兵として尊敬される若者清作は彼女を見初め、周囲の反対を押しきってお峯と結婚する。清作は日露戦争に出征し、傷ついて一時帰宅するが、お峯は彼を再び戦場に出したくないばかりに、彼の眼を五寸釘
で刺してしまう。国家主義への敵対といった観念を持たないお峯にとって、徴兵制は夫を奪おうとする余りにも具体的な暴力装置に他ならない。お峯は
それに対し、徹底した自己中心の考えで臨んだのだ。模範兵としての名誉を失った清作は始めはお峯を深く憎むが、やがて国家や村落の共同体意識に絡めとられていた自己の不自由さに気づき、再びお峯を愛するようになる。
谷崎潤一郎原作の「卍」や江戸川乱歩原作の「盲獣」では、それは性を 取り囲む家族主義的な規範である。「卍」では、一人の美しい令嬢(
若尾文子 )と彼女を観音であるかのように崇め、愛する弁護士夫妻との倒錯的 な関係が描かれる。性愛を、家族という経済単位を形成していく手段として
扱うことを否認し、夫妻の生きる理由そのものにまで高めていく。夫妻を演 ずる岸田今日子と船越英二の憑かれたような表情が印象的だ。「盲獣」は更に過激で、盲目の男に「彫刻のモデルになってくれ」と監禁された女(緑魔子)が、次第に男の欲望に応え始め、更には先導するまでになり、マゾヒスティックな性愛関係を結んだ挙げ句両者とも破滅していく物語。下等生物のような触覚中心の生(知性によらない)に対する賛歌。
増村保造の映画は、社会的規範vs個人の自由、という図式を基軸にし、人間の生命力の豊かさを誰はばかることなく「濃密」に賛美するものだ。個人の個別の生の問題が、国家や軍隊、企業などの大小の組織の横暴や、家
族や性などの社会規範に対する「異議申立て」という形で追求されるのだ。 その結果、二項が対立し攻めぎあう「劇的な物語」が生まれることとなる。
増村保造は実に様々な局面における人間の生の問題を考えていくのだが、二項対立の図式の応用が明らかであるために、その作品の構造は単純でわかりやすいものとなる。人生のどんな複雑なシチュエイションからも、勝ち負けを争うゲームのような構造を取り出してくるのである。だからどんな作品でも、過激になりすぎることがなく、安心して見ていられる。恐らく、現在よりも「反社会性」や「反権威主義」というものに対する力強い支持が、大衆の側にあったのではないだろうか。
ここで増村映画の面白さと物足りなさが浮かび上がってくる。つまり、「アンチ」に対する大衆の要請を鋭敏に感じ取った芸術家が、実に様々な問題に気がつきそれを可視化する才能に恵まれながら、大衆の期待を裏切ることができず、個別の生の不気味さを晒すことよりそれらを二項対立の形式にまとめあげることを優先してしまう。ただ、それによって、それまでタブー
視されていたような諸問題を採算の取れる商業映画のテーマとして定着させた功績は極めて大きいと言わなければならないだろう。映画の娯楽としての価値が現在よりずっと高かった時代ならではのジレンマだったのかもしれない。
しかしいずれにせよ、制度に対立する個々人の「生命」を至上のものとし て謳い上げた増村映画を、現在の大半の日本映画は乗り越えていないように見受けられる。自己の意識そのものが「生命」と対立することもあるのであって、だからこそ拒食症などという障害が起きたりするのだろうが、増村保
造以後の作家は様々な力の対立を二項でなく多項の対立として描いてほしい ものだと思う。そして、採算が取れるかどうかは別として、そうした複雑な対立概念を大衆化する方法を何とか考え出してほしいものだと思うのである。
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