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第19回 貨幣と言語を巡る悲劇−オペラ「夕鶴」(新国立劇場)
2000.12.15.

團伊玖磨作曲のオペラ「夕鶴」を聴きにいった(新国立劇場 作/木下順二 つう/鮫島有美子 よひょう/田代誠 他 演出/栗山民也 指揮/ 増田宏昭 東京フィルハーモニー交響楽団 12/5)。
とてもよかった。 もともとメロドラマ風の作りであるとは言え、 涙がこ みあげてくるような感動に襲われる瞬間が何度かあった。満員の聴衆も同じ 気持ちだっただろう(ただし、時計のタイマーを切り忘れる不届き者がいた。 カンベンして欲しいところである)。

今回初めて発見したことがあった。民話「鶴の恩返し」をベースにした木 下順二の戯曲は、鶴の無垢な愛情と人間の金銭欲を対比させることをテーマとしたものではなかったのだ。貨幣の観念を持たない者(鶴:つう)と持つ 者(人間:よひょう)の相互理解の難しさをテーマとしたものだったのだ。

つうは決して無欲な女性として描かれてはいない。好きな男を独占したい という欲望は人並み以上に持っている。彼女の望みは、限られた空間の中で 限られた対象を時間をかけて愛し抜くというものである。同じ土地に安住すること、好きな男と過ごすこと、村の子どもたちと遊ぶこと、日課としての 適度な労働に従事すること、にひたすら心を傾ける。愛する対象を空間的に 固定してしまう代わり、時間を存分にかけて愛し方を工夫し、それによって 対象との関わりを複雑で豊かなものに変容させていこうというのである。だ から空間的関係の無限性=交換価値を表象する「貨幣」というものの意味が 理解できないのだ。つうは劇中、何度も「わからない」という台詞を口にす る。金銭に無欲なのではなく、そもそも金銭が何かわからないのだ。

これを象徴するのが、つうが織った千羽織りの布に対する、つうとよひょ うとの認識の違いを示すエピソードであろう。よひょうは貨幣についての観 念を持った普通の人間であるから、布をきれいだと美的に認識するだけでは 飽き足らず、都に出て売りつけ、布の何倍もの価値を持つものとの交換を可 能にする貨幣を得ることに胸を膨らます。しかるにつうは、よひょうにその 美しさを楽しんでもらいたいがために命を削って布を織ったのだと言う。交 換のための交換という貨幣の基本的性質を理解しないつうは、よひょうが美 しい自分よりもみすぼらしい金属片を上位に置いていると考えて、不安に苦 しむ。理解できないために不安は増殖し、つうは、よひょうが都に出たまま 自分のところに戻ってくれなくなるのではないかとさえ想像してしまう。
よひょうにとって、つうへの愛情と貨幣への執着は何ら矛盾するものでは ない。彼は不安に苦しむつうに、一緒に都に行こうと言い、また貨幣を多く 蓄積することはつうを幸せにすることだと信じてもいる。彼は、たとえ一つ 一つの対象に振り向ける時間は制限されても、対象の空間的充実を得て、対 象同士を複雑に関連させる中で愛情を開花させていくことを好む近代人なの だ。
結局、つうはよひょうを失うことへの恐れから、よひょうという人間の核 心に潜む観念を理解しないままもう一度機を織ることを約束してしまう。こ のことが悲劇につながっていく。

この悲劇とは「タブーの侵害」というものである。つうは「機を織る姿を 見ないでくれ」とよひょうに頼む。これは、合理的に解釈すれば、「本来交 わらない異種の生物である鶴が人間に化けて干渉していることを知られない ため」であるだろう。表向きはその通りだろうが、それだけでは不足である 気がする。タブーの設定の理由がそんな合理的なものだけであるとすれば、 つうが鶴であることが知られてしまっても、よひょうが「それでもいい」と 了解すれば問題はないはずである。しかし、よひょうが「戻ってくれ」と頼 んでも、つうは飛び去ってしまう。それはなぜか?
それはタブーが、全てを捨ててつうを信じられるかという決意をよひょう に迫るものとして設定されていたからではないのだろうか。生きている今の 時間を楽しむことよりも、楽しめるかもしれない虚構の可能性を蓄積するこ とを好むような近代的な「知の操作」を超えたもの、盲目的な「信」を、つ うはよひょうに問うたのだ。つうは、愛情というものの文字通りの意味での 至高性を強度な観念として有する。これはつうにとっては余りにも当然なこ とで、彼女は理屈づけを許さない「愛情に対する信」という観念なしには人 間として存在することができない。丁度人間が、交換価値という観念抜きに存在することができないのと同じである。愛情を媒介に人間に変身したつう だが、よひょうに対しても愛に対する無償性を要求する。その表現が「見て はいけない」というタブーの設定なのだ。つうに対する愛情に迷いがないの なら「見る」など思いもよらないし、「見た」としたら愛情が純粋でないの である。そしてつうにとって純粋でない愛情は愛情ではないのであろう。元 から人間なのではないつうは、言語もまた貨幣のように交換価値を持つこと がわからない。「つうを愛しているけれどその正体が見たくもある」という 理屈は通じない。言語を獲得したばかりのつうにとって、愛は愛単独であり、 裏を持つことを許さないのであろう。「信」という、交換性を持たない、理屈を退ける次元の言語を獲得することで辛うじて人間になれたつうは、(俗 世間の人間にとっては獲得の難しい)「信」の共有が破れると同時に、人間 として存在することができなくなってしまう。
「夕鶴」とは恐らく、貨幣と言語についての認識のすれ違いを描いた話な のだ。

どうも木下順二の戯曲にばかり筆を費やしてしまったが、栗山民也の演出は、「タブーの設定」の話はともかく、貨幣という不条理については明らか に意識的であったように思う(つうが自分の恋敵のように金銭を見つめると ころなど)。まあ、民話的美しさを出すことを最優先しなければならない以 上、どぎつく表現することはなかったが。つうを、感情の振幅の激しい生身 の女性として、またよひょうを特に欲張りとも言えない根っからの善人とし て捉える方向性はうなづける。子どもたち(杉並児童合唱団)も生き生きしていた。
團の音楽は徹底的に美しい。シンプルに聞こえるが、波のようにたたみかけてくるフレーズはその底に複雑な和声の芽を隠し持つ。古今のオペラ、ミュージカルを研究し尽くした末、オペラという形式と日本の風土がどこで接 点を持つかについて真剣に考えたであろう成果が見事に出ている。現在のア ニメのバック・ミュージックなどには大変な影響力のある作品だと思う。い わゆる、日本独特の節まわしやらリズムやらが、ラヴェル風の音響の中に実 にうまく取り入れられている。但し、ベルカントの歌唱法はやはり日本語に は馴染まない。歌手たちは気をつけて歌っていたことと思われるが、歌詞が 聞き取りにくく、字幕が欲しかった(イタリア語でもドイツ語でもベルカン トは聞き取りにくいそうだから目くじら立てることではないのかもしれない が)。子どもたちが歌う場面は、オペラ風の歌い方を強要していないだけに、 思いの他聞き取りやすかった。
歌手の中ではよひょう役の田代が歌・演技ともすばらしい。つう役の鮫島 もすばらしかったが、歌詞が極端に聞き取りにくかったのが残念。増田宏昭 指揮の東京フィルは終始繊細な表情づけで快調。さすが本国モノはうまい。 外国のオーケストラだったらどんな演奏になるのだろう。

文責:忘れっぽい天使


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