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皆様新年そして新世紀明けましておめでとうございます。
明けて早々、悲惨な事件が頻発していますね。年末・年始、これといった作品に出会えなかったし、今回はいささかまとまりのない「雑談」にしてしまいましょう。
成人式の式典で、新成人たちが騒いで問題になりました。高知県の橋本知事が「出て行け!」と叫んだ他、警察沙汰になったケースもありました。後で出頭してきた連中、確か計画的に騒いでやろうと考えていたと言ってい
ましたね。会場で酒は飲むは、クラッカーは鳴らすは。そんなことするくら いなら出なきゃいいのに、なんて思いますが(ちなみにぼくは出席しようと
すら考えませんでした)、これも彼らの数少ない自己表現の晴れ舞台なので しょう。情けないことです。でもまあ、更に情けないのは地方公共団体の行政の方でしょう。新しく成人になる人たちを歓迎しようという意志が少しで
もあるのでしょうか? 粗末なパイプ椅子に長時間括り付けて型通りの挨拶 を聞かせ、土産でも持たせてやれば御役目ごめんといったお役所仕事に、今
までの新成人たちがつきあっていたこと自体がおかしい。当人たちが主体として活躍できる場が全然ないじゃないですか。スペースだけ提供し、コンサートでも詩の朗読でも展覧会でもプロレス大会でも、好きにやらせればいいんです。挨拶など最初と最後だけでよろしい。若い人の心と身体の自由を縛っておいて何が自立ですか。表現を公開することが大人への第一歩。その初舞台を与えてやるという方向に動いていかないかなあ。
病院で不必要な筋弛緩剤を投与し、大勢の患者を命の危険に陥れた男。ハチャメチャな経営の病院の内情もひどいけれど、病院に仕返しをしてやるといって何の罪もない患者を標的にするという発想はすごい。この病院に来る
前は、准看護士としてマジメな働きぶりで通っていたそうじゃないですか? 今やマジメという美徳は警戒すべきものです。聞けば医療を志したきっかけは、自分が怪我をした時の治療に感動したからとか。動機が純粋ですね。筋弛緩剤を投与した動機も純粋なのでしょう。仕事を自己検証し自分が社会の中で果たす役割を考えることなど視野の外で後先考えず目先の利害に飛びついてしまう。共同体の中で生きる私、という実感が薄いのですね。
先日テレビを見ていたら暴走族の特集をやっていました。最近の暴走族はほとんど武装集団と化し一般人に対する暴行も増えているということ。インタビューに答えていた若者の言葉に驚かされます。「うるさいと迷惑がられた方がいい」「何かあったらすぐ刺す。刺すなんて普通のこと」「自分が今面白ければいい。将来は将来で何とかなる」といった内容でした。つまり、?今の時点での自分の快楽が最優先
?快楽を得られるのは他人が苦しむ様を実感する時、この2点に集約されるようです。一定のルートから落ちこぼれてしまった人間が自己表現する場がとことんなくなっているのだな、と思いました。だから世間がどうでもよくなって自分のまなざしだけが基準になる。負の価値をめざした者は歯止めがかからず、行くところまで行ってしまうのでしょう。
喜国雅彦の名作「月光の囁き」(小学館コミック)は、変態の少年の恋愛物 語です。その中で恋愛対象の少女がヤクザの息子につけ狙われ、少年がヤク
ザのところに直談判しにいく場面があります。少年が帰った後の時の年配の組員のセリフを引用してみましょう。
「おんなじ不良でもわしらの頃はもっとこうギラギラした目しとったはずや。そやけど、哲雄(=ヤクザの息子)の目は生きとんか死んどんか全然わから
ん。今の奴(=少年)もおんなじじゃ。ヤクザの組に乗り込んで交渉するにしては、目が熱うない。かと言うかて、ヤケおこしてすてばちになっとるよ
うな冷たさでもない。あいつらの目は、他人と話しながら、自分の事しか見とらん目じゃ」。
メタレベルで物事を考えず、直接対象にぶち当たっていくのは今の若い人の表現の特長の一つと言っていいかもしれません。身にふりかかってくる事象を、共同体の価値観を当てにできず、自分一人が感じたことだけで解釈して押し切ろうとする。その結果が共同体の価値観から見て、歪んでいるかどうかを判断することが最早自分一人ではできないわけです。
教育問題にも社会問題にも無知なぼくは適切な処方箋を書くことはできま せん。ただ、今までマスコミに専横されていた表現の場を、インターネットなどの力を借りて若いうちから個々人が持ち、パブリックな存在としての自分を自覚することがとても重要だという気がするのです。自分を表現する場
の少なさが、社会の外へ場を求める契機となっているように思えるのです。
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