| 第21回 裏職人芸の世界―小沼勝監督作品特集
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2001.2.15.
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以前、ユーロスペースでの増村保造監督の映画の特集のことを書いたことがあったが、同じ場所で今度は日活ロマンポルノの巨匠・小沼勝監督の特集をやっているので足を運んでみた。
(ホームページ http://www.nikkatsu.com/
上映は3/9まで。キネマ旬報社より「S&M 小沼勝の華麗なる映像」(仮)が発売決定)。
今の時点で見たのは「生贄夫人」「花と蛇」(以上谷ナオミ主演)、「妻たちの性体験」(風祭ゆき主演)「夢野久作の少女地獄」(飛鳥裕子、小川
亜佐美主演)「ベッド・イン」(柳美希主演)及び小沼勝を対象としたドキュメンタリー映画「サディスティック&マゾヒスティック」(中田秀夫監督)である。どうです?
題名を見るだけでいかにも「ポルノ」という感じがするでしょう? 日活は経営が悪化する中、1971年よりロマンポルノ路線で製作を再開することに決めた。10分に一度はセックス・シーンを入れること、低予
算に抑えること、などの条件をクリアしさえすれば基本的に何をやってもよいと製作者たちは言われたらしい。世間体を気にする人は日活から去っていったが、映画好きの映画製作者たちはむしろ製作の自由を歓迎した節があったようだ。小沼勝をはじめ、神代辰巳、相米慎二ら多くの名監督が日活から巣立っていった。仲間うちでの互いの映画についての議論も盛んに行われ、熱気と活気が仕事場に溢れていたという。
どの作品も大変に密度の濃いことに驚かされる。性的快感を求める男性客の視線を考慮した映画作りなので、当然ストーリーはすぐ安易な方向へ流れ
るが、映像一瞬一瞬が一枚の絵として成立するほど均整が取れている。
「生贄夫人」は、行方不明だった夫が突如出現して妻を空き家に監禁し、サディスティックな行為に耽るが、やがてマゾヒズムの快感に目覚めた妻の性欲に怖れをなして再び逃げ出すというものである。その中で、縛った妻が
排便する様子を夫が側で見るという場面がある。女性が排泄の欲求を訴えて 全身を震わせ、恥ずかしさのために額に汗の玉を滲ませながら排便に至る様
を克明に撮っていくわけである。こうした非日常的なシーンを撮る際、小沼 勝は事前に自ら演技を練習し、手本を示しながら女優たちにつきっきりで厳しく指導をしたという。小沼勝は日常においては極めて常識的な人間であっ
たようだが、映画製作のこととなると人が変わったようになるタイプらしい。演技者はさぞかし大変だったろう。「妻たちの性体験」には壮絶な乱交シーンがあり、主演女優の熱演もさることながら群がる男たちの裸体の輝きにも
目を奪われる。物語の意味合いではなく、画像そのものの美をためらうことなく優先する姿勢が一貫していて気持ちいい。
故に小沼勝の映画においては、作者の主張は二次的な価値を持つに留まる。大映の増村保造の映画が、映像の視覚的な効果や女優たちのエロティックな魅力に充分敏感でありながら、作品を支える底辺の部分に人間主義的な倫理観(善悪を決する)を置いていたのとは大違い。増村保造の映画が、個人の自由な生命の謳歌が人間にとって何よりも大事なのだ、という個人主義の思
想を登場人物の造形の基本としていたがために、もっと下等で矮小な欲望−排泄欲やフェティシズムなど−を充分に描くスペースを備えていなかったのに対し、小沼勝の映画はそもそも“倫理観”というものを作品形成の基盤に据えていないために、映像にしたいイメージを即視覚化の対象に据えること
のできる自由闊達さがある。まだ見ていない「箱の中の女 処女いけにえ」 には、下水道を裸の女性がさまようシーンがあるそうだが、ロケの現場で思ったより下水の水がさらさら流れてしまうのを見てとった小沼勝は、下水の水をわざわざ塞き止めたそうだ。充満する汚水という、想像するだに嫌らしいシーンを撮りたいがためだったという。
その頂点は「夢野久作の少女地獄」であろう。女子高の中のレズビアンの 関係を描くこの映画は、イメージの豊かさという点で夢野久作の原作を遥かに超えている。「アイ子さん」と「火星さん」の二人の女の子が友愛から性
愛に目覚め、更に宗教的な死後の愛への信仰にまで進んでいく様が、個人の 内面の成長という側面からでなく、気まぐれなイメージへの固執という側面
から描かれていく様は驚きである。二人がもてあそぶ風船のイメージは、誰 からも妨げられない二人の性愛の自由の象徴という意味から離れていき、どこにでも飛んでいってしまう風船のイメージに二人の運命が委ねられているかのような錯覚を起こさせる。時空列の大胆な切断・連結の手法をはじめ、驚くべき仕掛けが詰められるだけ詰め込んである。これぞ傑作!
そうかと思えば、若い女性の不倫とその終結を叙情的に追った「ベッド・ イン」のような作品もある。全共闘の残響も含んだ、水気たっぷりの荒井晴
彦の脚本を、小沼勝は必要以上の心理描写を排除してさっぱりと描いていく。心の動きは何気ない仕草で説明され、足りない分は短いBGMのように流される背景の挿入によって補われる。平凡な街の情景が女性の心の哀しみを映
す水たまりのように見えてくるから不思議である。オーバーアクションにより不倫の悲哀を演歌調に歌い上げる野暮は一切なし。親密に寄り添ったカメラが提示してくる、女性の外見の微細な変化だけがその心の内側を解く唯一の鍵となる。水彩画のような淡い色調の映像美を狙い続けるだけで、能弁な心理描写以上に人間の複雑な感情が伝えられてしまうのだ。地味ながらまさに「見かけ以上」の作品と嘆息せざるを得ない。
ロマンポルノの作家としての職人芸に徹すること−芸術家としての内面を持つことにこだわる必要がなかったことが、小沼勝にとって幸いしたように
思える。持ち込まれてきた企画を、主観を挟まず、素材(脚本や俳優たち)の性質をひたすら生かすように料理する、その、こう言ってよければ一種の無私の精神によって、小沼勝は自分自身でもびっくりするようなイメージの数々を手にすることになったのではないだろうか。
今回の特集で、ユーロスペースはわざわざ「女性専用シート」を設け、ポルノ映画を敬遠する女性客に配慮を見せているが、その必要はないと思う。パンフレットには「究極の愛を追い求めた」とか「エキセントリックに変貌する、しなやかな女たち」とか書かれているけれど、小沼映画が愛に対する一定の倫理的主張を持っているとは思えない。性的欲求を満足させたい男性
の視線に応えること−これがロマンポルノの第一義。時代を経て作品に古典的価値が出てきたからと言って、ポルノ作品の製作理由を曖昧にする必要など全くない。来場した女性客の方はかなり多かったが、その辺は割り切って鑑賞していたように見え、頼もしく思った。
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