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第22回 相手探しの時代?−「THE GIFT OF HOPE」展(東京都現代美術館)
2001.2.15.

肩透しを食うことの多い「観客とのコミュニケーションをめざす」型の企 画展の中で例外的と言っていいくらい楽しいものを見ることができた。
「THE GIFT OF HOPE−21世紀アーティストの冒険」展である(東京都現代美 術館 2000年12月16日〜2001年4月8日)。
実はこの展覧会の名前を知った時、反射的に嫌悪感を感じてしまった。以前、この「今日の芸術」欄でメディア・アートと呼ばれる芸術を批判的に論じたことがあった(http://page.freett.com/anjienji/index.html)。観客との新たなコミュニケーションの道を探るなどとうたいながら、その実、観 客の参加の余地などまるでなく、器材だけは新しいが心理主義的な図式を辿 り直しただけの古臭い中身を見せつけられるものばかりではないか、という のがその主旨だ。作者の肥大したエゴを指し示す標語のようなものになりさ がっている作品群にうんざりしきっていたぼくは、東京都現代美術館のこの 企画にも足を運ぼうかどうか迷ったのだが、来て良かった。ここに並べられ た作品は、完成度はともかく、見知らぬ人との親密な交流を心底から喜ぶ表情を持ったものばかりだった。

ヤノベケンジの「アトムスーツ・プロジェクト」は、放射能防護服「アトムスーツ」に身を包んでチェルノブイリ原子力発電所近辺を訪ね、住民と交歓し、写真を撮って集成・展示するとともに、小さな「アトムスーツ」を装 着させたガイガー・カウンターを多数会場に配置させるというもの(ガイガ ーカウンターは宇宙線を受けると微かな電子音を発し点滅する)。ぼんやり したイメージとして存在するに過ぎなかった「チェルノブイリ」という土地 に、そのイメージを表象させた外装で乗り込んでいくわけ。酔っ払いから「 こいつは外から俺達をからかいに来ているんだ」というようなことを言われ てシュンとしてしまった話などが、絵日記として壁に貼ってあったりする。 感傷的なヒューマニズムに捕まってしまったきらいもあるが、「作品」でなく、体験の共有をめざした「プロジェクト」として筋が通っている。

島袋道浩の「そしてタコに東京観光を贈ることにした」は、明石で取れたタ コをビニール袋などに入れて東京まで旅をさせ、その途中で出会った人や風景をビデオに収めるというもの。生きたタコを持ってタクシーに乗り込む様 子はおかしいし、タコを中心に通りすがりの人たちと和気藹々の関係ができ ていく様もいい。タコを海に帰す場面も感動的。但し、「なぜタコか」とい う肝心な所が曖昧だ。タコのイメージと旅のイメージが文字どおり「からみ つく」ようだったらもっと面白くなったのに。このままだとちょっと変わった紀行日記で終わってしまう。タコにまつわる独自な概念形成が必要だろう。 作者は作家活動を直接語りかけるために、出張スライドショーを企画してい るようで、その行動力が羨ましい(対象は社会人から中学生まで)。

タイのスラシ・クソンウォンの「フリー・フォー・オール」は、タイ各地か ら集められた日用品を壁に貼り付け、訪れた人に好きなものを持っていって もらうだけ、という大胆なもの。もちろんタイではありふれた雑貨でしかな いものばかりなのだが、日本人の感覚とはちょっと違った色合い、デザイン に改めて目を見張る。同じ物でも、違う土地に持って適切な配置の工夫をす るだけでアートになってしまうんですね。タイの人の個室を模した小部屋の 展示もあり、そこが気に入ってしまったらしく中に座り込んでなかなか出て こない女の子もいた。

同じくタイのナウィン・ラワンチャイクンの「フライ・ウィズ・ミー・ト ゥー・アナザー・ワールド インサム・ウォンサムとその旅に捧げる」は、タ イの偉大な芸術家、インサム・ウォンサムの若き日の姿を絵・漫画・インス タレーションなど様々な手段で描き出す。ウォンサムは1960年代にスクータ ーに跨って超ビンボー世界旅行に出ることで創作活動を始めた。そんなウォ ンサムの自由な精神に対する尊敬の念が、ユーモア溢れる漫画作品、スクー ターに跨った姿の像、ウォンサムの住む小屋のコピーその他から熱く伝わっ てくる。もちろんウォンサムを偉人扱いするのでなく、彼が今にもそこに出 現しそうな臨場感を仮構することに徹している。ここにも部屋の様子の再現 があったが、タイ人は他人の家にあがりこむのが好きなのか?
だが、美術館の高くて冷たくて白い壁を何らかの方法で覆い隠す工夫が必 要だったと思う。こういう壁に囲まれていると「作品を鑑賞している」気分 になってしまうではないか。

他にも「視聴覚交換マシン」(二人一組で目にビデオカメラを取りつけ、互いの視覚を入れ替えるように操作する。八谷和彦)とか身近で日常的な ものを軽いタッチでひたすら描きまくる試み(イー・ジンギョン、韓国)な どがありそれぞれが楽しかった。
これらのアーティストたちの試みの特長は、まず自分自身が観客の先頭を切って自分の作品の参加者となる、という点にある。つまり、表現の管理者としての地位−作品の意味を全て作者の内面世界に帰着させ、作品の外側を うろつく鑑賞者に、わずかな手掛かりを与えそれを元に作者の内面世界を復 元させることを求める−には見向きもせず、友達に対するように観客を迎え 入れる空間を作り、観客と一緒に遊ぶことを目指しているようなのだ。自分 を説明するためでなく、自分が楽しむために空間形成がなされる。人間は間柄の中で生きる存在だから十分楽しむためには相手が必要ということになる。 だから確実に相手に何かを手渡すことが表現の眼目になってくる。自己の内 面世界に閉じこもることに自由を見出していた時代は終わった。何故なら、 閉じこもったアーティストは実は部屋の戸を誰かが叩きに来るのを心待ちに していたのであり、「自由」が完成して戸が完全に叩かれなくなった今、なお内面を聖なる空間として崇めることには意味がないからだ。

「自分探し」が終わり「相手探し」の時代が始まっている、のだろうか。

文責:忘れっぽい天使


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