| 第23回 詩人の写真と写真家の詩−北爪満喜・蓑田貴子「くつがえされた鏡匣」展 |
2001.4.15.
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詩人北爪満喜と写真家蓑田貴子によるジョイントの「くつがえされた鏡匣(かがみばこ)」(CASA ?03−5685−1170
4/10〜4/24)は変わったコンセプトの展覧会だ。 『暁:少女』(書肆山田)『虹で濁った水』(思潮社)などの詩集を持つ北爪満喜は、デジカメで撮った写真を日録風な文章をつけて発表し、東川賞新
人作家賞を受賞したこともある蓑田貴子は、写真作品とともに、それに合せて書きおろした詩を収めた冊子を展示する。「詩人はデジタルカメラで詩を
書くように写真を 写真家はシャッターを切るように言葉で 歩き出す」というコピーの通り、専門領域を交換しあうことで(つまり互いの専門領域に
おける?アマチュア?になることで)、二人の間で共有された美意識とそれぞれの個性の違いを確認し、披露しようというのだ。
北爪満喜のホームページでこの展覧会の案内が見られます。
→http://www1.nisiq.net/~kz-maki/event/ev1.html
北爪満喜は、きらめくような、ゆらめくような、美しくも奇抜なイメージの乱舞によって独特の夢見るような少女的世界を造り続けてきた人。イメー
ジの交錯から生まれてくる物語(その逆ではない)は、通常の起承転結に抗う魅力的な歪みを持つ。彼女は数年前から写真に興味を持ち、自分のホーム
ページを開設してからはデジカメで頻繁に写真を撮るようになり、日録のコーナーで文章とともに画像を発表するようになった。今回の作品群はその延
長線上にあるものと言える。
写真に付された文章は、散文とは言え、極めて詩的要素の多いもの。例えばこうだ。
−「ひとりで暮らしている母の家からの帰り、、上越新幹線に乗る。<中略>新しい新幹線には記憶が付着していない。それがいい。運ばれている瞬間
だけがある軽さ。窓の外を平らな風景が飛び去ってゆく」
「つよい陽射しに透けてくるプラスティック。波形のうしろには、くねくねと絡まる草の蔓の影。/いま書きかけの詩は、エレベーターで屋上に登ると
みずうみが広がっていた・・・という詩。こんな青のイメージかもしれない」 「木でできた魚。私のコートのポケットには指でさぐると、木でできた魚が
入っている。指先でふれると魚は葉になる」−
意識が現実から浮遊しだそうとする丁度その瞬間に、シャッターが押され、
見慣れた風景が童話のように舞い、瞬時に映像として固定される。風景と目
が合った瞬間の写真、とでも言えばいいか。小さな十字架の影だったり、寝
転んだ猫の眼差しだったりするものが、作者の私的な?予感?を具現化して
いく。
「はっきりと見ること。写真を撮ってぼんやりと見ていたものをはっきりと
見ることは『意識化』に影響してくる」
蓑田貴子は、一貫して表現としての写真を追い求めてきたアーティストで
多くの個展・グループ展の経験を持ち、小林のりおらとインターネット上で
「web photo collection」を開催したこともある。初期の頃は、対象を記号
として取り扱うやや抽象的な作風であったが、「写真の作品化への疑問や難
しさを強く感じていた」そうである。
「特定の対象を追いかけていくこと、写真の中で、ある対象が際立ついわ
ゆる対象度の高い作品は他人が撮ったものを見るのは好きでも、私自身が撮
ることについてはあまり愉しめなく、また求めていないということだった。
もっと、些細な、日常の中で塵のように落ちて消えていくもの、しかしきら
っと光りながら・・・そういうものを求めていたのだった」
自分自身の想いそのものでもないし、対象そのものでもないもの、身の回
りにあって作者と親しい関係にありながら特定されていないもの、主観世界
の内側にあってその中心になく周辺で浮遊するもの、子どもを抱える主婦と
しての忙しい生活からほんの一歩自分を外へ連れ出してくれるもの−を、写
真表現の専門家としての蓑田貴子は対象としているように思える。それは「
塵のように落ちて消えていくもの」の意味を考察することであり、「時間と
は何か」を考えることにもつながっていく。「滲んだ色」は、自分の子ども
を撮影した写真だが、露出を長く取っているために色も形も滲んでいる。そ
の?滲み?という別次元の空間の中で、母親としての自分に笑いかけてくる
子どもと対面することとなる。それは、私的な時間の「肖像写真」とでも言
えるものだ。そしてその意味合いをより明確に訴えるために彼女は写真作品
に印象的なタイトルをつけ(「骨をくわえた獣」と題された犬の写真はすば
らしい)、詩作品を書き下ろすこととなる。
「水着のまきこ/笑い声が響いて 青い空に飛んでゆく/水に濡れた布地がと
ころどころ/肌にぴったりくっついて/プリントされた花模様の黄色と水色
/その色が濃くなっている/ざざっという強い水音に振り向けば/水着の色も
庭木の緑色も/さるすべりの花の濃いピンク色も/絵の具になって流れ落ち
た」
二人とも40代に入った女性の芸術家であり、その作品はその生活と強い関
係を持っている。北爪は「いわゆる家事というもの。そこを切り裂くように
詩を書く意識が通過する。いえ、切り裂かなくては窒息してしまうから、日
常に詩を書く道筋を保ち続けているといったほうが近い」と書き、蓑田は「
写真を撮って、撮った写真を見て、思いを巡らせ考える時間が、閉塞感を持
った私の日常に風穴を開け、救ってくれるようだった」と書く。二人とも膠
着しかける日常意識を解きほぐす、もしくは切り裂くために表現活動をする
が、その表現は日常を無視することでなく逆に注視することによって、日常
に新たな意味を与え、日常に息を吹き返そうとさせるものとなっている。そ
して更に、キャリアのある詩人・写真家としての表現意識の膠着を解くため
に表現手段を取り替え、自分と鑑賞者とのコミュニケーションの道を再確認
しようと試みているのだ。
表現とは普段言えないこと・見えないものを「表に現す」ことであろう。 一定の表現手段におけるプロであることに限定されない、人間が人間に言い
たいことを伝えていくという本来的な意味での「表現者」として、二人は振る舞ったように思えたのだった。
※引用は全て冊子「くつがえされた鏡匣」より行いました。
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