■「技法」から「越境」へ シリーズ「越境する知」の誕生


■「技法」から「越境」へ――シリーズ「越境する知」の誕生
2000.05.10.

★シリーズ「越境する知」全6巻。第0巻『内破する知:身体・言葉・権力を編みなおす』栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉=著、東京大学出版会、2000年4月刊、本体価格2200円、ISBN4-13-003316-6

啓児:このたび東京大学出版会さんは、新シリーズ『越境する知』をスタートされましたね。マネージング・エディターのお一人である後藤さんに少し微妙なテーマ設定ですが、伺いたいことがあります。この「越境」シリーズの“第0巻”『内破する知』のとある箇所で、同じく貴社から出ているベストセラー、『知の技法』シリーズがモロに批判されている。アレっと思ったのですが。

後藤:そもそも『技法』はあくまでも教育のためのもので,マドンナのヌードとかそういう瑣末なところで話題になりましたけど,本質的には,最近の学生さんをよく見て非常に真面目に作られた大学教養教育の教科書です.『越境』とは基本的に本の目指すところが全然違いますから,まあいいがかりのようなものではないでしょうか.

啓児:ただ、東大出版会という出版社は、東大当局とは別法人だけれども、やはり何らかの形で東京大学のありかたを反映しているのではないか。そういう意味では『技法』から『越境』へという筋道をつけてみてみると、なにか意味があるかもしれないなと思うのです。

後藤:たしかに東京大学というか「トーダイ」は,実態を離れて「日本の最高学府」という記号と化していた時期が長く続いたわけですが,本質的には大変「ナマぐさい」大学ですよね.「ナマぐさい」というのは,単に知が集積されている場所ではなくって,現実の政治的利害が集積している場所でもあるということです.

啓児:けれども実際の東大のスタッフは、おそらくいまでも大半が自分と政治とは無関係だと思っていそうに見える。トーダイの教官として色んな学内政治や対文部省、対産業の場面に露出しているという意味では、「政治家」風な方はいらっしゃるようだけれど、こと自分の学問の体系だけは イデアの世界なのであって、なんで政治と関係あるもんか、と考えている向きもあるのではないか。

後藤:今回の『越境』のシリーズは,まさにその一見「学問の体系」然として澄ましていながら,近代を通じて大変な力を振るってきた知的制度,表象の政治を一貫して問題にするものです.

啓児:東大のハイアラーキーが、他大学との関係、社会との関係において安定していた時代は、東大は「トーダイ」として、無色透明な表象でいることができた。ところが90年代以降、一連の教育改革のなかで、東大は社会における自分の知的アドバンテージを社会に示す必要に迫られた。「実地に役立つ政策立案」とか「産学協働」で「大学を開け」ということなのだけれども、これが一気に“国民国家の国策大学としての東大”の、いわば原初的なナマぐささを一気に呼び戻した、とは言えませんか。改革反対の教官は、いまだに「知というものに対してアドバンテージなどを考える のもばかばかしい」と言うかもしれない。それも一つの見識ではあるので すけれども。

後藤:『技法』はそうした「東大(教養学部)改革」の産物である側面を有しているかもしれない.すくなくとも現象としての『技法』のベストセラー化は,こうした東大の再政治化と平仄があっているはずです.

啓児:いまとなっては大古典の『言葉と物』ではないですが、表象の体系はその根拠、表象の表象可能性の根拠を検証しようとすると必ず自壊しますね。知の三部作の刊行過程はそれに似たようなところがあって、まず、『技法』は知の構造に分け入って、“知には技法がある”ということを言ってしまう。つまり、“知は知であるがゆえに知である”という、表象の透明性を担保していた素朴な約束を、大学の側から放棄してしまったわけです。

後藤:ちなみに,刊行当時一番多かった否定的な書評は「知は技法ではない」というものでした.

啓児:『技法』はもう一方で、新しい東大のアイデンティティを表象しようとして、知の体系が存立する根拠を、知のユーザー(ここではおもに学生さんですね)との幸福な契約関係に求めようとします。“使える学問”というわけですが、もうそれは「知とは使用者に応じて構成されるもの」といったような類の知の自己意識、つまり、知の政治的構成主義・相対主義の一歩手前とも言えるかもしれません。

後藤:東大の「知」を「技法」に対して解放したこと,そういった性質の知が集積するところとして東大を社会に位置付けたこと,これが,よくも悪くも『技法』最大の貢献だと思います.

啓児:『技法』シリーズの第2冊めが『知の論理』ですね、もうここまでくると、知が一種の制度であると言っちゃうこととほとんど同じのような気がします。3冊めは何というタイトルでしたっけ? そう、『知のモラル』ですね。これが、よきモラルをもった者がモラルに則して知の論理と技法を行使すれば世の中丸く収まるということだとすれば、それはもうほとんど新古典主義であると言える。あるいは、表象のタブローに「人間」が出現したのと同じ、とでも言い換えられるかな。

後藤:でも技法を駆使する喜びに目覚めてしまった人に,モラルの留め金はほとんど訴えません.フィクショナルであることが見え見えだからです.そんなわけで,やっぱり『モラル』が一番売れませんでした...でも是非読んで見てください,この本は自分の置かれている位置が非常によく分かっている本ですから.

啓児:舌が滑りすぎましたが、これは『技法』という本に問題があるのではなく、むしろずば抜けてよくできた本だったからこそ、『技法』が東京大学を包含する知の布置の変化、はっきりいえば「再政治化」のプロセスの一端を表現しているということで、それは先ほども後藤さんが仰ったとおりですね。

後藤:90年代を通じてすっかり本来のナマぐささを取り戻した東大ですが,それに対するリアクションは二通りがありうると思います.一つはもう一度純粋知の世界を作ってそこに逃げること,もうひとつは,自己の知が一種の政治的布置のなかにあることを見据えながら,その布置を問うてゆくことを自分の知に課すことです.まさに後者が『越境』シリーズの一見バラバラな諸論文をつなぐ糸だと思っています.

啓児:なるほど。知と生と政治、という問題……

後藤:これまでのお話の中での「知の政治」というのは,一方でまあ,東大内外に党利党略が影を落としているというような話でもあるのですが,『越境』のシリーズは別に東大の自己批判がメインテーマなわけではありません.知の政治的布置とはもう一方で,ある一人の人が生きてゆくなかで,なにを糧とし,誰と共同することで自分のニッチを構成するかという,そういう意味での「政策」における知の位置という次元があるわけです.その意味で「いきる力の教育」なんて政治教育にほかならないわけですけれども,それは措いておくとして,一口に政治といってもこのような位相のレイヤーがあり,それを『越境』シリーズでは「身体」「語り」「言説」「装置」「市場(交通)」「植民地」という6つの巻構成で表現しています.[2000年4月11日、新宿にて。白熱するインタビューの続きは本誌ホームページに掲載予定です。]

★お知らせ:イベントとサイン本販売

トークイベント「他者と居ることの不思議―『内破する知』刊行にあたって」栗原彬氏講演会/5月19日(金)夜7:00より青山ブックセンター 本店カルチャーサロンにて/入場無料・定員150名・要予約/電話03- 5485-5513

“講演会に寄せて”:石は語ることができるか。たとえば水俣のヘドロの埋立地に立つ野仏。田中正造が肌身離さず持ち歩いた頭陀袋に残された小石。誰だって石を代理して語ることはできない。しかし、石のほとりに立つことはできる。そのとき何かが起る。他者と共に居ることの不思議について思いをめぐらしたい――栗原彬
 
栗原彬(くりはら・あきら)氏略歴:1936年生まれ。立教大学法学部教授(政治社会学)。水俣病などを主要なフィールドに、近現代日本市民社会 の差別構造と近代知の再編成(「舫いなおし」)に取り組んできた。水俣 フォーラム代表。主な著書に、『政治の詩学』(新曜社)、『やさしさのゆくえ=現代青年論』(ちくま学芸文庫)、『人生のドラマトゥルギー』 (岩波書店)、『講座差別の社会学』(全4巻 編著 弘文堂)『証言・水俣病』(編著 岩波新書)など。

!シリーズ第0巻『内破する知』著者4人の直筆サイン本を、三省堂書店神田本店、紀伊國屋書店新宿本店、青山ブックセンター青山本店の3店限定で、販売中!

●後藤健介(ごとう・けんすけ):1969年生まれ。東京大学出版会編集部。主に心理学・教育学・語学書担当。自分の作った本をいつも自分の妻に行商させているらしい噂がある。
●啓児(けいじ):フリーライター。後藤氏とは、氏が東大出版会入社以来の知人。氏の細君にはしばしば弱みを握られている。

文責:東大出版会・後藤健介×啓児


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