| ■「技法」から「越境」へ――シリーズ「越境する知」の誕生[後編] |
2000.06.25.
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★東京大学出版会の新シリーズ「越境する知」全六巻は、七月上旬、第1巻から刊行、各2600円。以下毎月続刊。「1・身体:よみがえる」「2・語り:つむぎだす」というパフォーマティブな次元から、「3・言説:切り裂く」「4・装置:壊し築く」といういわゆる物象化の問題を経て、「5・文化の市場:
交通する」「6・知の植民地:越境する」という他者のいる問題の空間へと展開する巻の構成になっている。
啓児:一ヶ月半ぶりの掲載になるそうで、若干解説しますと、東大出版会の新シリーズのスタートにあたって、編集者の後藤さんに企画の趣旨と成立事情をざっくばらんに伺ってみようというものだったわけです。特に「知の三部作」との認識論的切断について聞きたかった。その問いについてはあらまし答えていただきました。
そこで今回はもっとドギツク訊きますが、この新シリーズに名を連ねている執筆陣を見渡すと、地引網で海底までさらいつくしたような「豪華さ」です。かえって統一感が保てるのかな、と心配してしまうのですが。
後藤:今回のシリーズは、よく「一体なんのシリーズなのか」と尋ねられます。シリーズ全体の狙いを話し出すと、背景だけでも前回のように長くなりますので、かわりに各巻の目次をお見せして、「いま日本で一番イキのいいものを書く人を集めた、“新しいタイプの現代思想講座”ですよ」といってごまかしています。各巻に9〜10人の方が、それぞれ50枚前後の文章を寄せてくださっていますが、ご指摘の通り非常に豪華な執筆陣です。最近の思想界で話題になっている人はかなり網羅しているので、このシリーズを揃えておけば、まあたいていの場面で知ったかぶりができるかな、と言えなくもない。
啓児:そこで訊きたいのですが、このシリーズが前回の話のように“東大をまきこんだ知の再政治化”を背景にもつ本だとして、それがどうしてこうした6巻のシリーズ本でなければならないのか、という疑問がありうると思う。「現代思想講座」なんていう括りは、後藤さんの本心とはズレがあるね。現代の思
想の状況が「講座」という形態で体系的に啓蒙できるなんてことはあるわけが ないし、それなのに敢えて数人の論者を一定の容器にパッケージしようという
なら、それはただのいろんな文章が並置されているだけのショウ・ケースでしかありえなくなるでしょう。
後藤:実際、執筆者の中で、「こんなシリーズ、『思想』『現代思想』と、プラスせいぜい『大航海』の読者に面白がられて終わるのが関の山ではないか」という懸念を、堂々と私たち編集部のまえで口になさった方もいます。舞台裏をお話すれば、企画発足時「ワークショップ」をしまして、執筆者を招いて編者がプレゼンテーションしたのです。そのさい、私たち編集部は総攻撃を食ら
いました。あの段階では、編者と執筆者が互いに異者同士で、「和気藹々」とか「もりあがり」からはほど遠い雰囲気でした。「“現場性”といいながら、思弁的すぎる」「こんな遅れ馳せの“脱構築”になんの意味がある」とかの発言があいつぎ、傍で聞いていて私は泣き出したい気分になったぐらいです。
啓児:それが3、4年前のスタート時点の話だね……
後藤:けれども、そこで分解しなかった。面白いのは、これらの“意地悪”をおっしゃった方が、企画から降りることなく、しかもかなり気合いの入った論文を書いてくださったことです。「もう一度ワークショップやろう」という方
もいたりして。これは決して「ワークショップを通じて思想の統一を実現した」エピソードではないのです。逆に、この時点で、私たちは、むしろ企画立案時よりもはっきりと、“兼ね合わなさ”が重合する“場”としてのシリーズのイ
メージを描くことができました。
啓児:知と生の政治的布置、関係性の様態そのものを問うというわけですね。いや「問う」などというより、そうした関係性の場そのものを本にするといったほうが正確だろうか。
後藤:たとえば、このシリーズが常に横目で見ている「ポスト・コロニアル」とか、「ディアスポラ」という概念があります。いわずと知れた流行語ですが、こうした知の政治的な布置を扱う概念には、その人称性をめぐって、大雑把に二つの方向があるとおもうのです。
一つは、“国民国家の一般国民”にも根底にはディアスポラ性があって、それが近代を通じてネイションとディアスポラの二項対立に至った、というもの。これは、みんな心がけ次第でまたディアスポラになれるぞ、ということです。するとここでは、本当にディアスポラの知が必要な人の固有性・人称性が段々無化されていってしまう。
逆にもう一方は、ディアスポラは個人の選択の問題ではなく、その身に被る ものであり、その身の固有性、人称性にとって不可避な知の在り方そのものなのだ、という考え方です。ディアスポラな人は“ディアスポラに縛られている”のであって、それは国民が国家に縛り付けられているのと一緒だ、という極論もありえます。しかし、そうするとお互い兼ね合わない同士、疎遠なままでし
かありえない、ということになるでしょう。
啓児:これらの概念を”開く”と”閉じる”の二つの方向性は、パラドクスのように見えて実はそうでない。もともとこれは関係の概念、他者の問題でこそあれ、所謂各人の本質という意味での“アイデンティティ”の問題ではない。知の政治の布置を、こうしたアイデンティティ・ポリティクスの布置だと考えてしまうと、もう変化も生成もない不毛な闘争でしょう。どうも最近こちらの
傾向が鼻について嫌なのだけれど。
後藤:知の政治的布置といっても、将棋盤にアイデンティティの駒が並んでいるように捉えてはいけない。知の現場を問うにあたっては、“非決定”“非領有”の他者を呼び込む工夫が必要です。現在の自分を作りあげるまえの“非決定の関係性”に、もう一度飛び込まなければいけない。これが、このシリーズ
を複数著のシリーズとして構想する最大の理由ですね。一人であるいは仲間う ちで「自分だけは超越したぞポーズ」を取ってはいられない。
啓児:むろん、他者は私が領有していないから他者なのであって、それゆえに このシリーズを整然と構成することは、最初から不可能です。出来てみて、バラバラな仕上がりだといえるかしれない。それが、編者ないしは編集者に起因
する、力量の不足の問題とどう区別するかは、大変微妙な問題ですけれど。
後藤:章と章のあいだで矛盾するどころか対立するものもある。たとえば1巻 で、荒川修作さんのいう「身体」と佐々木正人さんがいう「身体」はケンカ寸前です。立岩真也さん(5巻)の「福祉装置観」と大阪ボランティア協会の早瀬昇さん(4巻)のそれはまったく違うし、その横で『生の技法』でも知られる安積遊歩さんが(1巻)「福祉をする/される」の二分法を非常にシビアに
みている。先ほどの「ポスト・コロニアル」でいえば、“?外テキストの逆毛 読み”の西成彦さん、“偽アイデンティティの肯定”をいうテッサ・モリス-鈴木さんと、“受難としてのクレオール”をいう中村和恵さんの3人では、とても同じ概念について語っているとは思えない。
啓児:シリーズというのはそうした差異を内在的に克服していなければならない、という向きも編集者としては考えるのではないか?
後藤:「講座」であれば、この差異を解決するか、あるいはあるヴァリエーションの濃淡として整理しなければならないでしょう。私たちはそれをやめました。というより、人選とテーマ、各巻の構成をした時点で、この混沌は意図的に仕組まれたものです。もちろん、リライトの要請を編集部からしたものもありますよ。でも「分かりやすくしてくれ」とお願いしたことは、一度もありません。結果、編集部としては、自分が仕掛けた仕組みに自分の足を取られた始末となりました。だから、このシリーズは分かりやすいかというと、決してそうではない。
啓児:難解路線は古き良き「ニューアカ」で死滅したのでは?
後藤:そうしたニュアンスで言えば「難解」ではない。どの章にも“「分かった」とは言えないけれど、なんだか気になる言葉が一つ二つ、魚の小骨みたいに喉に引っかかってくる”という読後感がある。いままでの話からすると、この痛さは、自分が領有していない他者と出くわした痛みであり、そうした他者に出会わざるを得ない生の政治の場がもたらすものだというわけですね。
啓児:そうするといわば、東大の知が被った痛さを、どうもそのまま読者の皆さんにおわけするみたいな。高飛車な感じがするみたい。
後藤:同じ痛みが東大という制度にも、編者自身にも、ボディー・ブローとして効いてゆくでしょう。編者たちは東大をはじめとする知の制度から自由だとはいいませんが、“居心地悪く居座る”ことになるでしょう。この態度はいつか編者と大学の双方に、クリティカルな変化をもたらします。
啓児:「なんか分からんなあ」といいながらでも読んでもらうことで、現代の知が直面している当惑や、痛さを自分のものとして知っもらえれば、ということだろうか。そうしてはじめてこの「越境」のプロジェクトは目的を達成すると?
後藤:知の「越境」の先には多分調和はなくて、むしろ論争がまっているのかもしれない。しかもそれは、単に言葉の戦いではなくて、各々が自分の生の場所を巡って争うアリーナなのかもしれない。けれども、他者の言葉、他者の生
の場所の方へ、自分を“越境させよう”という姿勢を選択するということ、このことが“生の政治の場”における最高の知の身振りなのではないですか。
自己を先に確立しなきゃとか、自己を充足するために他者や異物を排除しようという、硬直したありかたが、悲しいことに現在の日本の“生の政治の場”における身振りの大勢です。しかし“いま自分が領有している自分”なんて所詮まやかしではないか。このシリーズを通じて、他者から被るもの、はじめは「痛み」のように感じられるものがもつ意味を、思考実践のひとつの主題として、ぜひあらゆる生の現場に立つ方々に、考えていただけたらなとおもいます。
啓児:なるほどね。編集子としてはたくさんの人に届いてほしい?
後藤:まずは、このシリーズ0巻『内破する知』を書店で手に取ってしまって、で、取ったはいいが、“なんか痛そうな予感がしてイヤかも”、と思われた方に、ためらいながらも、まず買ってほしいですね。でなければ商売あがったりで。冗談はさておき、真面目な話、読み手である方が「痛そうな予感」をおぼえてくださること、もうその時点で、「越境」のプロジェクトは始まっています。
●後藤健介(ごとう・けんすけ):1969年生まれ。東京大学出版会編集部。主に心理学・教育学・語学書担当。自分の作った本をいつも自分の妻に行商させているらしい噂があるが本当は恐妻家?
●啓児(けいじ):フリーライター。後藤氏とは、氏が東大出版会入社以来の知人。氏の細君にはプライヴェートを知られており、ともどもに恐れている。
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