| 第12回 「つながり」のひとつ
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2000.05.15.
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新刊本屋をうろついて新刊をながめ新刊予定を手に入れペラペラめくりながら美術館や映画館に足を運んでいると、ごくまれに「つながり」に気付くことがある。
今回は最近気づいた「つながり」のひとつについて書こうと思います。
まずは時系列的にその「つながり」と思う要件を挙げてみます。
@、Vol.27紹介しました現代美術館の企画展『シュポール/シュルファスの時代』ゴダール『中国女』の上映。2000年1月29日〜3月30日開催。(S/Sは1960年代の終わりから1970年代にかけてフランスで活動したモザイク的・前衛的なグループの名前で、ドゥヴァド
、ヴィアラ、カーヌ、パジェス、セトゥール等が主要なメンバーであった。
彼らは美術をとりまく機能的要素、物質的要素、形式的要素、制度的要素を対象に解体/再構築を目指し、理論誌を発行し、論争を展開した。
この運動は六八年五月革命おいて頂点に達する1960年代のフランスの政治的、知的、文化的風土を抜きにしては考えられなかった。
この運動が発展していく文脈を明らかにするような1967年の3月毛沢東『毛沢東語録』フランス語訳出版、8月ゴダール『中国女』公開、10月ギュイヨタ『50万の兵士のための墓碑』、11月ドゥボール『スペクタクルの社会』等々の「出来事」があった。
当時の『テル・ケル』の編集次長・評論家のマルスマン・プレネは「68年前後の表現者たちは社会的、政治的背景と全く無関係でいることはでき
ないという考えの上に成り立った姿勢です」と語り、主要メンバーの ドゥズーズは1969年8月の『ラ・プラス」紙で「まず自分の文化的諸条件を忘れなくてはならない。我々は文化的しきたりの囚人であり、そのしきたりは物事に対して負うべき責任を人から奪うものなのだ。
自分の態度に意識的になり、全く新しいやり方で物事との関係を見直さなくてはならない」と語っている。
また、このS/S運動の理論となっていくものにとって決定的な影響を与 える3つのエッセイが1969年に発表された。それはデリダ『播種』、クリステヴァ『セメイオティケー』、シェフェール『あるタブローのセノグ
ラフィー』であった。)
A、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』全6巻 インパクト出版会 G=E・ドゥボール編集、木下誠監訳の完結。
1巻「状況の構築へ−SIの創設」2巻「迷宮としての世界−余暇と労働をめぐる闘争」3巻「武装のための教育−統一的都市計画」4巻「孤立の技術−日常生活のスペクタクル」5巻「スペクタクルの政治−第三世界の階級闘争」6巻「一つの時代の始まり−五月革命の権力」(シチュアシオニスト・インターナショナルは1950年代後半から
1970年代初頭にかけて、フランス及びヨーロッパ各国で社会・政治・文化・芸術の統一的実践を志向した集団であった。
その後、世界各国に広がったこの運動は大量消費を「スペクタクル」とみなして徹底的に批判する立場であり、社会の諸領域にまたがる実践
を通じて、「スペクタクル」の対極にある「状況」を構築しようとした。
この運動の最もまとまった理論的成果が、運動の中心を担ったドゥボールの『スペクタクルの社会』である。1967年発行(木下誠訳、平凡社、1993・・現在は品切中)この本、テーマは体系的に布置されているが、全体は221の断片(断章)の積み重ねで構成されている。
断片から断片へ文章が鏡のように反映し合い、互いが弁証法的な対話を交わす。私たち読者はその空白を埋めなければならないような本である。)
B、映画監督クリス・マルケルの日仏学院での4月期週末の連続上映。
一番有名なのは1962年の『ラ・ジュテ』であろうか。元モンティ・パイソンのテリー・ギリアムが『12モンキーズ』としてリメイクしたことは有名である。この映画、ほとんど全ての映像が写真の連続、つまり静止画で構成されている。ドゥボールの本『スペクタクルの社会』同様、
観客に断片の間を埋めることを要請している。思い出すのはヴェラ・ヒティロヴァ1966年の作品『ひなぎく』(チェコスロバキア)とケン・ローチ1969年の作品『ケス』である。
その他メジャー系でも60年代に公開された映画は今もって何と魅力的 なのだろう。
C、4月25日『現代思想』5月号発売。特集は「スペクタクルの社会」。(ドゥボール「スペクタクルの社会についての註解」、アガンベン「『スベクタクルの社会についての註解』の余白に寄せる注釈」の訳出の他、上野俊哉、木下誠、港千尋、酒井隆史、小倉利丸等々が執筆している)
D、ギー・ドゥボール『スペクタクル社会についての註解』が現代思潮社 から5月20日前後発売予定。94年の自殺の2年前に出版された本の翻訳。(『現代思想』5月号に冒頭の一部分が訳出されています。)
E、5月20日、このメルマガで何度か紹介されたジョルジョ・アガンベンの『人権の彼方に−政治哲学ノート』高桑和巳訳が以文社から発売される。(これについては、このメルマガVol.25の五月氏の記事と
Vol.28.5、29.5、32.5の訳者の高桑氏のバイオポリティクスを参考にして下さい。また、この本には献辞として「ギー・ドゥボールの憶い出に」と記されているという。)
ほぼ同時期に「場」こそ違うが私が「つながり」と感じる「こと」が起こっている。「意義申し立て」の為に、ということでもよい。
「アートの世界」では90年代以降、身体は再び重要な主題として表現を喚起する場となりつつある、という。その背景には昨今の遺伝子工学、臓器移植、電子メディア等々の発達に反比例するようにますます希薄になっていく私たちの身体の「生」の危機感からくるものであろう。危機に晒された身体が敢えて選ばれているようだ。
「アートの世界」だけでなく、それに多方面での対応が迫られていると感じる。
何々に携わることなく、いかにして何々の世界や一般社会に反抗すべきか?
今日は蒸し暑かった。行きの満員電車の車内でサラリーマンが大声で何やらもめていた。「労働」の1日が終わり、帰りの電車に乗ると車内でまた何やらもめている。どうかしてるぜ、まったくもってうんざりだ。
それでは、また。
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